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ダーウィニズムと社会ダーウィニズム(社会ダーウィニズム研究における論点3)

ダーウィニズムと社会ダーウィニズムとの関係についてよく見られる言説が、社会ダーウィニズムはダーウィニズムの「誤用」もしくは「濫用」というものである。これは、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムを切り離し別のものとする見解であり、しばしば生物学と政治イデオロギーを切り離す見解とともに主張される。事実と規範との区別に重ねられて、ダーウィニズムは生物学という科学によって確立された真理であり、様々な考え方が対立する政治や社会をめぐる議論とは無関係というわけである。

このような考え方を批判する代表的な論者がロバート・M・ヤングである。ヤングによれば、19世紀前半は自然神学を基盤として「自然における人間の位置」を議論する「共通のコンテクスト」が成立しており、このコンテクストで自然、人間、社会を貫く自然法則が探究されていた。ヤングによれば、このコンテクストで引き起こされた「価値体系の自然主義化」の過程で決定的に重要だったのが1798年に匿名で出版された『人口論』であり、『人口論』第6版を読んでマルサスの〈生存競争〉(struggle for existence)概念を取り入れたダーウィンも、その延長線上で自らの進化理論を展開した。ゆえに、ヤングによれば、ダーウィン進化理論の成立過程において、社会理論と自然科学を切り離すことはできず、ダーウィニズムはそもそも社会ダーウィニズムだということになる。

ヤングの議論については、以下の文献を参照。
Young, Robert M. “Darwinism Is Social.” The Darwinian Heritage. Ed. David Kohn. Princeton: Princeton UP, 1985. 609–38.
—. Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture. 1985. Cambridge: Cambridge UP, 1994.
—. “Malthus and the Evolutionists: The Common Context of Biological and Social Theory.” Past & Present 43 (1969): 109–45. Rpt. in Young, Darwin’s Metaphor 23–55.

このようなヤングの研究に対して、ダーウィンの進化理論に対するマルサス人口理論の役割を過大評価しすぎだという批判もある。自然選択理論を打ち立てる過程におけるマルサス人口理論の果たした役割が大きくないとすれば、ダーウィンとマルサスとの距離が広がり、社会理論/政治イデオロギーと進化理論/生物学を切り離しやすくなる。社会ダーウィニズム研究においても、社会ダーウィニズムの起源をマルサスに求めつつ、ダーウィンとマルサスを切り離すことでダーウィニズムは社会ダーウィニズムとは異なるとする研究がある。

以前の記事でふれたように、スペンサー理論を社会ダーウィニズムの典型としつつ、ダーウィンとスペンサーを切り離して、ダーウィニズムは社会ダーウィニズムではないと主張する見解も一般的である。この場合も、スペンサー理論が社会理論や政治イデオロギーであるのに対して、ダーウィニズムはそのようなものとは無関係な科学理論であるという、上述の図式がしばしば根拠とされる。

個人的な見解としては、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムと呼ばれるものが完全に切り離せるなら、もはや後者を社会ダーウィニズムと呼ぶ必要はない。ホーキンズは、慣用的な用語法であるという理由で、「社会ダーウィニズム」という用語の妥当性を主張しているが、一般にそう使われていることしか正当化する根拠がないなら、イデオロギー(対立)にまみれた「社会ダーウィニズム」という用語を学術研究において使い続ける理由はないと考える。

ホーキンズの社会ダーウィニズム研究は、
Hawkins, Mike. Social Darwinism in European and American Thought 1860–1945: Nature as Model and Nature as Threat. Cambridge: Cambridge UP, 1997.

ダーウィニズムとは何か?(社会ダーウィニズム研究における論点2)

社会ダーウィニズムを考察する際には、当然のこととしてダーウィニズムとは何かということを検討しなければならない。

社会ダーウィニズム研究には、社会思想である社会ダーウィニズムと科学理論であるダーウィニズムの間には必然的な関係はなく、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムははっきりと区別すべきであるという議論も見られる。

しかし、ダーウィニズムの意味とは関係なく社会ダーウィニズムの意味が決まるのだとしたら、その考え方を社会「ダーウィニズム」と呼ぶ必然性はないだろう。

(英辞郎 on the WEBの「social Darwinism」の項目では、以下のように説明されている。「社会ダーウィン主義◆個人・集団・国家・思想における競争が、人間社会の進化をもたらすという理論。Darwinismの言葉が使われているのは、生物進化の考え方や適者生存(survival of the fittest)の考え方を取り入れているためであり、ダーウィンとの関わりはない。19世紀のスペンサー(Herbert Spencer)や、優生学を創始したゴルトン(Francis Galton)らが提唱した。」)

evolutionismという意味でDarwinismが使われることもあるが、ダーウィニズムがダーウィン進化理論のことだとすれば、通常その柱は共通起源説(枝分かれ進化モデル)と自然選択説だろう。しかしながら、ダーウィンの進化理論には現在の科学では否定される要素も含んでいる。代表的な例としてはラマルクに由来する獲得形質の遺伝であるが、遺伝学が確立されていなかったことも現代の視点から定義されるダーウィニズムと同時代のコンテクストから定義されるダーウィニズムが異なる要因となっている。

また、ピーター・J・ボウラーが強調しているように、現代的な観点におけるダーウィニズムと同時代のコンテクストによるダーウィニズムとの重要な違いは〈進歩〉の概念をめぐるものである。

現代のダーウィン進化理論理解によれば、自然選択はあくまで環境により適応した個体が生き残り子孫を残すプロセスに過ぎず、適者とは必ずしも優れた個体を意味するわけではないが、自然選択の同義語とされた適者生存は生存競争を通じて優れた個体が生き残り劣った個体が死滅する進歩をもたらす過程だと捉えられてきた。

進歩の必然性という考え方が、存在の連鎖のような下等なものから高等なものにいたる生物の序列という考え方と結びつき、下等な生物から高等な生物への進歩していくという進化過程が当然のものだと考えられる傾向が見られた。いわゆる人種の序列もこのモデルに組み込まれ、類人猿から野蛮人を経て文明人にいたるという下等なものから高等なものへの進化という図式が広く共有されていた。

枝分かれモデルと環境への適応による進化というダーウィンの進化理論は、上記のモデルを相対化する契機を含んでいたが、ダーウィン自身も『種の起源』で自然選択による進化が進歩をもたらすという期待を表明しているし、『人間の進化(The Descent of Man)』では人種の序列を前提にしている。

ダーウィンは、上記のような当時の通念を前提にしつつその枠組みに収まり切らない理論を展開しているので、いわゆる社会ダーウィニズムとの関係でダーウィンの進化理論を考察するのは一筋縄では行かない。

〈社会ダーウィニズム〉概念の必要性(社会ダーウィニズム研究における論点1)

とりあえず社会ダーウィニズムの歴史研究に関する全く学術的ではない個人的なメモを書くことにする。

社会ダーウィニズムの歴史研究に関して身も蓋もない論点。そもそも社会ダーウィニズムという概念が有効なんだろうか?必要なんだろうか?という問題。

個人的な見解というか、2009年のイギリス哲学会のシンポでも表明したんだけど、個人的にはプラスよりもマイナスが大きいという感触。あまりにもイデオロギー色がつきすぎている。

少し違う論点として、ダーウィンの進化理論と直接に結びついていないものを社会ダーウィニズムと呼ぶ理由があるのか?という問題もある。

例えば、ダーウィンが『種の起源』で自らの進化理論を発表する前から社会ダーウィニズムは存在していたという命題はどのように考えるべきだろうか?もちろん、一般的に社会ダーウィニズムと呼ばれているものがダーウィン以前から存在していたと議論することは可能であるが、それを社会ダーウィニズムと呼ぶ必要はあるのだろうか。

また、典型的な社会ダーウィニズムを唱えたのはスペンサーで、ダーウィンの進化理論は社会ダーウィニズムと関係ないというような議論もされたりするが、それでもなおスペンサーが唱えた考え方を社会ダーウィニズムと呼ぶべきだろうか。スペンサーとダーウィンを切り離した上でスペンサーと結びつけられる思想をダーウィニズムの名前で呼ぶ理由があるのだろうか。もちろん、そういうふうに呼んできたからという正当化はありうるけど、ある方法で社会ダーウィニズムを定義するとスペンサーが社会ダーウィニストでなくなるからこの社会ダーウィニズムの定義は不適切であるというような議論がなされると、何か違うという感じは否めない。

全く疑いもせずに社会ダーウィニズムとか社会ダーウィニストとかを明確なかたちで実在するかのように語る研究にも違和感を感じざるをえない。