在外研究3——フラット探し

以下の内容は、あくまで私がブライトンで経験したフラット探しのことです。同じイギリスでも地域によって事情が異なる可能性がありますので、御了承ください。余計なこともいっぱい書いているので、重要なところは太字にしてあります。

受入先のSussex大学は、客員研究員(Visiting Research Fellow)に対して住居を提供しないのはもちろん、情報提供も含めて何の支援もしてくれないと聞いていたので(自分で確かめたわけではありません)、フラット探しはすべて自分でしなければいけませんでした。

日本にいるうちに情報収集や内覧の予約などはできると思いますが、僕の場合は日本の出発直前まで公私とも多忙で余裕がなかったので、ブライトンの仮滞在先に着いてから情報収集も含めてフラット探しを開始しました。

ブライトンを歩き回って不動産会社の店頭に掲示されている情報なども確認しましたが、基本的には賃貸物件の取りまとめているサイトで条件に合う物件を探して一つずつ内覧の予約を入れていくというかたちでフラット探しを始めました。賃貸物件を取りまとめているサイトで代表的な二つはRightmoveZooplaですが、私にとってはRightmoveの方が使いやすかったのでRightmoveで情報収集しましたが、掲載されている物件はほぼ変わらないと思います。

内覧の予約はサイトのフォームから問い合わせることもできますが、電話をかけるのが一番手っ取り早い方法です。私はサイトから問い合わせて向こうから連絡があったら内覧の予約を入れるという方法を取りました。結局、実際に内覧したのが2件、内覧の予約をしようとしたのに断られたのが2件、内覧の予約を入れた(つもりになっていた)のに内覧できなかったのが1件、連絡が来たけど内覧の予約を入れなかったのが2件でした。

こちらの条件として、場所はざっくりブライトンの東側、(できれば)バスタブ付き、(できれば)電気コンロやIH(induction)ではなくガスコンロで絞り込みました。1年弱しか住まないので家具付き(furnished)が望ましいとも思ったのですが、物件数があまりにも少なかったので(おそらく数%)、絞り込み条件にはしませんでした。結果的にフォームで問い合わせた物件は1件を除いて家具なし(unfurnished)で最終的に契約して入居したのも家具なしのフラットになりました。

順を追って具体的に流れを説明します。最初は、Preston Park周辺がいいかなと思っていたので、ブライトン駅から北北東の区域でよさそうな物件から絞り込んでいきました。一番よさそうな物件に問い合わせを入れたら電話がかかってきたので内覧予約を入れたのですが、予約を入れた数時間後に決まったという電話連絡をもらいました。次も同じ区域の物件に内覧予約を入れ、いいかなと思って条件に合うか不動産会社の担当者から大家に問い合わせてもらいましたが、三日間くらい待たされてから大家は他の人を選んだという連絡をもらって振り出しに戻りました。続いて問い合わせたPreston Parkの西側の物件は学生は対象ではないという連絡が来たので学生ではないと返信したら、数日経ってから返信が来たもののその時点では今住んでいるフラットに入居する方向になっていたのでこちらから断りました。この間に問い合わせた一件は大家と直接やりとりするタイプで、契約をすすめている途中だと連絡をもらいました。その次に問い合わせたのが最終的に入居したフラットで、まだ退去していないフラットに内覧に行くというイギリスあるある経験をしました。今住んでいる場所に決めようと考えていたのですが、翌日にもう一件内覧を予約していた(つもりになっていた)ので、とりあえず前向きの返事をしておいて翌日に内覧してから最終決断するつもりが、雨の中歩いて丘を登って待っていたのにスタッフが現れず・・ということで、この丘の上の一件と、念のため問い合わせを入れていた家具付きの一件を断って、今住んでいるところにしました。内覧時にはまだ前の借り主が住んでいたのですぐには入居できず(11月1日から入居可能という物件で)11月4日に入居するということで契約を進めることになりました。

賃貸契約に際しては、まずこちらからこのような条件で賃貸契約をしたいという趣旨のオファーを電子メールで出します。私が入居した物件は大家が完全に管理を不動産業者に委託しているタイプだったので、不動産会社の担当者宛に出しましたが、大家が管理している物件は大家宛に出すのだと思います。必要な情報としては、物件の間取り(私の場合は“unfurnished one-bedroom flat with a living room, an equipped kitchen and a bathroom”)、物件の所在地、家賃、入居日(賃貸契約の開始日)、契約期間(私の場合は11ヶ月)などです。家賃は不動産業者が示していたものをそのまま書きましたが、家賃の交渉もできると聞きました。不動産会社の担当者からは、物件がfurnishedかunfurnishedか、そして家賃とdepositを先払いするということは必ず書いてと言われたのでそのようにしました。

最終的に入居したところは最初から家賃全額先払いという条件を提示してきました。為替レートも悪くなかったのもあって私にとっては悪くない条件だったので了承しましたが、通常のupfront(先払い家賃)は6ヶ月分です。おそらくupfrontを支払わない場合は保証人を求められるのだと思いますが、最初からそのオプションは提示されなかったので、よくわかりません。入居する意思を不動産業者の担当者に伝えたら、まず物件を押さえておくためのholding depositと呼ばれる着手金を支払います。これは法律で家賃の一週分と決められていて後で支払う(先払い)家賃と敷金から差し引かれます。日本での敷金に相当するtenancy depositは、家賃一月分強で、機能は日本の敷金とほぼ変わらないと思います。

余談ですが、Sussex大学の学生新聞『The Badger』で悪徳不動産業者に苦しめられた中国人留学生の話が記事になっていて、そこでは通常6ヶ月のupfrontが12ヶ月分請求された上に退去時に過大な請求がなされたと書かれていました。 

選んだ物件を管理している不動産業者の担当者からは、現金もカードも駄目で支払いは送金のみといわれて少し困ったことになりました。holding depositの支払い時にちょうど日本で即位礼正殿の儀の祝日があったために期限までに日本からの送金が間に合うかわからず、結局、受入教員に代わりに振り込んでもらいました。結果的には間に合っていたと思われますが、国際送金は初めてだった上に担当者に間に合わなかったらもう一度物件を市場に放出すると言われて不安になってしまいました。

手付金を支払ったら次にreferencingという手続きがあります。これは、不動産業者とは別の会社が、(私の場合は)勤務先の上司と前に借りていた物件の大家に照会して借り主の身元を保証する手続きです。私の場合はVan Mildertという会社が担当しました。まず不動産業者から依頼を受けた照会会社から連絡が来るので、ウェブサイトで必要事項を入力します。具体的には、勤務先や年収、以前に借りていた物件の大家や家賃などの情報です。情報を入力すると、上司や前の大家に問い合わせが行くという仕組みです(機械翻訳だと思いますが、日本語でも問い合わせしてもらえます)。イギリス国内であれば電話をさっとかけて形式的な質問をいくつかして手続き終了という感じなんだと思いますが、日本に問い合わせなければいけないのでそうもいきません。勤務先の上司については問題なかったのですが、もう一方については(日本で借りていた物件が不動産管理会社の所有する物件で大学が借り主だったのもあって)少し苦労しました・・(最終的には職員の方々の尽力で何とかなりましたけど・・どうもありがとうございました!!)

上司と大家への問い合わせ項目は以下の通りです。日本には全くない制度なので、出発前に勤務先の上司と日本で借りている物件の大家に対してイギリスでの不動産賃貸契約に必要な手続きなので協力してほしいと根回ししておくのがいいと思います。私は少し苦労したので。

・勤務先上司への問い合わせ項目

基本給
手当・賞与等
役職
雇用契約の種類(イギリスでは、permanentかtemporaryかzero-hourかなど)
雇用契約の期限
給与変更の可能性
上司の名前と役職

・大家への問い合わせ
物件の所在地
家賃を期限通りにきちんと払っているか。
物件を適切に利用しているか。
借り手を他の大家に推薦できるか。
借り手が誠実で信用できるか。
借り手についてその他コメント

以上の通り大家への問い合わせはほぼYes/Noで答えられる質問です。日本で持ち家に住んでいたりするような場合の手続きについてはよくわかりません。

referencingの手続きが難航している間にも不動産業者とのやりとりは続き、契約書の電子サイン手続きメールが届き、担当者から電話がかかってきて入居日のアポイントをとり、いろいろ目処がついてから11ヶ月分の家賃全額(すでに支払い済みの分を差し引いた残額)を日本から送金しました。その間も、メールで入居日の年が間違っていたり、11ヶ月とオファーを出した契約期間が12ヶ月になっていたり、そのために家賃の請求額が違っていたりと、細かいミスで消耗はしましたが、こちらから伝えればきちんと直してくれたので大きな問題はありませんでした。ただ送金手続のミスで手数料5ポンドが差し引かれてしまい、鍵を受け取る時に追加で請求されましたけど・・(ただ結果的には日本円で手数料を払うより安く済んだんだけど・・)

入居日からのことはまた次回以降に。

在外研究2——イギリスに出発する前の準備

・仮滞在先の確保

全てが後手後手にまわった在外研究の諸々で唯一早めに動いて実際に成功だったのが仮滞在先の確保です。近年はイギリスにリサーチで行く場合は、自炊できるアパートメントホテルを利用していましたが、ブライトンにはリーズナブルなアパートメントホテルがなく、いいところは割高なので、初めてAirbnbでフラットを丸々借りることにしました。先達の方にフラット探しには20日くらいの余裕は必要と聞いていたので、24泊予約したものの結局そのままフラットに入居することはできませんでした。フラット探しについてはまた次回以降に書きます。

・送金手段の確保

イギリスで在外研究する際には複数の送金手段を予め確保しておくことをおすすめします。これについては失敗したので、詳細は省きます。カナダからの招聘教員の方にTransferwiseをおすすめされていたのに、日本で準備せずにイギリスに来てしまったのは失敗でした。また銀行から送金する場合はマイナンバーを予め提出しておくことが必要なので、海外への転出届を出してしまうとマイナンバーは返納することになるので、手続きができなくなります。

また現在イギリスの銀行口座をもっていて将来イギリスで在外研究をする可能性がある方は、あらゆる手段でイギリスの銀行口座を維持することをおすすめします。私は(2006年を最後に二度と海外に行くことはないと釧路で就職するまでは思っていたので)留学時代に開設した銀行口座をほっぽらかしにして維持できなかったので、フラットの賃貸契約でいろいろと不便をしました。その他の支払いも基本はdirect debit(口座引き落とし)というものが多く、銀行口座を開くまでできないことがありました。

・保険

Visitorビザによる滞在はイギリスの医療制度でカバーされないので海外旅行保険に入ることにしました。比較検討する余裕がなかったので以前から利用している「たびほ」にしました。

・税金

日本の税金に関して出発前にしたことは税務署に納税管理人の届出書を提出したことだけです。こちらのリンク先にも書かれている通り、日本に支払う所得税や住民税が免除される非居住者になるためには、1年以上海外に滞在する必要があります。このことについては、在外研究について書かれたブログで知ってはいました。私は規定上1年以上滞在することはできないので、最初から居住者扱いなのですが、電話で問い合わせ(て日本で給料をもらう公務員だと伝え)たら納税管理人を選任して届け出よと言われたので、そうしました。これが正しかったのかどうかは今後の展開次第ですけど・・(イギリスで問い合わせた結果が不適切で二度手間になった経験で疑心暗鬼に・・)

(2月14日夜に追記)
・国際運転免許証(国外運転免許証)

出発直前に申請発行手続きを行い、イギリスにもってきました。イギリスで運転する条件については大使館のページにある「参考事項」を参照してください。

(2月19日夜に追記)
・転出届提出

海外に転出届を提出するとマイナンバーが返納となるので注意してください。在外選挙人への登録手続きも同時にできましたが、手続き完了には在留届の提出が必要になります。また転入する時に戸籍の書類が必要だと言われました。

(3月5日に追記)
・勤務先の上司と日本の大家への根回し
次の記事に書きましたが、イギリスで(ブライトンで?)賃貸契約をする際の手続きで借り主の身分照会をする手続きがあります。照会会社から勤務先の上司と日本で借りている賃貸物件の大家に問い合わせが行く可能性があると日本を発つ前に予め伝えておくのがいいと思います。

在外研究1——ビザ申請など

2019年秋から以前に留学していたイギリスのSussex大学で在外研究をしています。すでに在外研究期間の3分の1が経ってしまいましたが、これからイギリスで在外研究される方々の参考になるかもしれないので、簡単な記録を残しておきます。何か問題点がありましたら御指摘いただければありがたい限りです。

・在外研究の受入先について

勤務先では在外研究に出る前年度に申請しなければならず、その際に受入先も(ある程度)決めておかなければいけないので、2年前くらいからいろいろな人から話を聴いたりして考え始めました。受入教員の主なパターンとしては、(日本の)指導教員の紹介、国際学会などで知り合った研究者、メールで直撃などがありそうです。知り合いには留学していた時の指導教員にお願いする方々がわりといるのですが、私の場合は留学がtaught courseで、お世話になった教員とは修了してから全く連絡をとっていなかったので、その選択肢もあまり考えていませんでした(最終的にはメールを出してみて何ヶ月か経ってから断られたのですが)。

というわけで、2017年秋にSussex大学でリサーチをした際に、元々twitterでつながっていた今Sussex大学で思想史を教えているイアン・マクダニエル氏に会うことにしました。留学時代に世話になった現St Andrews大学のリチャード・ワットモー教授にも問い合わせメールを出したのですが、申請時点で返信がなかったのでSussex大学で在外研究をする方向で申請しました。

・ビザ申請

イギリスに在外研究する研究者は、Standard Visitorビザの範疇に入るacademic visitか一時労働者向けビザのTier 5を取得して在外研究をすることになります。イギリス政府の公式サイトでの説明は以下の通りです。

Standard Vistorの説明はこちらです。

該当するTier 5の説明はこちらです。

後者を取得するには受入先が発行するCos (Certificate of Sponsorship)という書類が必要になります。Tier 5については(情報は古いものの)こちらのブログが参考になります。Sussex大学は在外研究期間が1年未満の研究者にはCosを発行するのではなくフェローとしての受け入れる旨のconfirmation letterでvisitorビザを申請してもらう方針のようだったので、勤務先の規定上1年以上は滞在できない私はacademic visitで申請することになりました。

ただちょうど在外研究期間中に期限が切れるパスポートを所持していたために、パスポートの更新ができるようになる期限切れ1年前になってからパスポートを申請して新しいパスポートを手に入れてからでないと動き出せなかったので、(受入先に申請するのも含めて)出遅れてしまいました。

結局、受入期間を変更したletterを再発行してもらってacademic visitでのビザ申請を目指すことになりました。この時点で出発予定まで2ヶ月だったので、かなりの出遅れでした。さらにオンラインのヴィザ申請に入力すべき情報が多く、(在外研究前の授業負担増で学期末に身動きがとれなかったことのもあって)ヴィザ申請を始めてから終えるまで十日以上かかってしまい、出発まで一月半になっていたので仕方なく5日で申請の可否を判断してもらえる割高なpriority serviceを利用しました。

(申請に必要な情報は今手元にないので後で追加するかもしれませんが、現在の仕事、滞在の目的や資金、滞在先(予定)、専門技能、近年の海外渡航歴、イギリスの自転車運転免許の有無、リベラル・デモクラシーの価値観に反対する(テロ)組織などへの加入したことがあるか、敵国のために働いたことがあるか、などなど多様な質問項目がありました。ただ、すべての入力項目について証明する書類が必要なわけではないようです。)

(最後に特記事項を記入できるのですが、私はパスポートの名前と(学術活動にも用いている)本名が異なるので、その旨を記入しました。また、近年の海外渡航歴を申告する際に滞在日数1日未満に対応していないため、トランジットで入国して観光したトルコは1日滞在したことになっているが実際には1日未満だと記入しました。)

申請自体はイギリス政府のサイトからオンラインで行うのですが、生体認証付き滞在許可証Biometric Residence Permit(BRP)に必要な指紋などの情報とパスポートその他の書類を提出するためにVFS Globalという申請手続代行会社の事務所に出向かなければなりません。日本には東京と大阪にしか事務所がないので、オンラインで予約して新橋にある東京の事務所に出向きました。ウェブサイトはこちらです。

リンク先のサイトにある通り、追加料金を払うことでいろいろなサービスを受けられます。あまり情報がなかったので、待ち時間なしで個室で申請ができるサービスの他、金に糸目をつけずいろいろな追加サービスをつけてしまいましたが、パスポートをレターパックで郵送してもらえるサービス以外は必要なかった気もします。ただ、通常の窓口を利用する場合、かなり待たされることもあるようなので、待たされずに手続きをしたい方には有益かもしれません。

提出書類のうち実際に提出するのはパスポートのみで残りはスキャンします(スキャン代行サービスを利用したので、代行サービスを利用しない場合どうするのかはわかりません)。

提出した必須書類
(査証欄に空きがある)有効なパスポート(未使用)
(勤務先発行の研究課題と期間を示した)在外研究承認証明
受入先大学発行のletter。

提出した任意書類
(勤務先発行の給料を示した)在職証明書
住民票とその英訳と翻訳証明書
(勤務先発行の在外研究の)資金援助証明書
銀行口座の残高証明書
(勤務先発行の在外研究中の)給料支払い見込証明書
期限切れパスポート(の写真ページのコピー)。

受入先大学からのletterはpdfファイルを印刷したものです。

勤務先(の職員)は非常に協力的で助かりました。いろいろな証明書を出していただきましたが、勤務先が在外研究を承認していることと、その間にどれだけの給料が支払われるかが示されていれば、上司のレターなどでも構わないはずです。

住民票の翻訳は上記のブログで紹介されていた「くまざさ社」という会社にお願いしました。
(責任の所在がはっきりしていれば業者にお願いしなくてもいいようですが、とにかく忙しくてなるべく少ない労力で済ませたかったので、ブログで紹介されていた業者にお願いしました。)

銀行口座の残高証明書は必要だったのかよくわかりません。メインバンクがポンド建ての英語の残高証明書を発行してくれたので提出しました。

VFSの事務所での申請手続きは数十分だったと思います。提出書類の確認とスキャン、指紋の採取と写真撮影だけなんですけど。後は返送用レターパックに送付先を記入しました。priority serviceで申請したので、数日で結果が出たというメッセージが来て(結果自体は知らされない)一週間くらいでパスポートが戻ってきました。

パスポートに付いているのは入国予定日から一月の入国許可で、入国したら(与えられた選択肢の中から)予め指定しておいた郵便局で生体認証付き滞在許可証Biometric Residence Permit (BRP)を受け取ります(こんな基本的な事実もパスポートが帰ってくるまで知りませんでした・・)。ブライトンの場合は、Churchill Squareショッピングセンター内のWHSmithにある郵便局で受け取れます。

イギリスに来てからの諸々について、続きをまた書きます。

「19世紀イギリスにおける教養と一般教育の思想」研究会のお知らせ

研究代表者をつとめる科研費基盤研究(C)の研究課題に関する研究会を開催します。

研究会は公開で行いますが、会場の都合などもありますので、参加を希望される方は私のところまで御一報いただければありがたい限りです。メールアドレスはこちらを御参照ください。

研究会の詳細は以下の通りです。

「19世紀イギリスにおける教養と一般教育の思想」研究会(第1回)

2019年3月28日(木) 14:00ー17:10
岡山大学津島キャンパス総合研究棟2階演習室2

14:00ー14:50
崎山直樹「近代的大学の誕生とリベラル・アーツ 19世紀中葉のアイルランド新設大学を題材に」

14:50ー15:40
藤田祐「T・H・ハクスリーの科学論と教育論」

15:40ー16:00
休憩

16:00ー16:50
小田川大典「現代政治思想における知性・教養・啓蒙」

16:50ー17:10
全体討論

Vera Lynn

3月20日、BBC SussexのtwitterアカウントはVera Lynnのニュース一色だった。1917年3月20日生まれのDame Vera Lynnが100歳の誕生日を迎えたのだ(Dameは男性のSirに対応する女性の敬称)。

一般的には「We’ll Meet Again」で知られている歌手のVera Lynnは、「forces sweetheart」と形容されるように、第二次世界大戦中に軍隊への慰問を行ったことで知られ、イギリスにおいては第二次世界大戦の記憶と結びついた存在である。

The British remain captivated by World War II, much more so than Americans, no doubt because it was so close to home, indeed, for a time, during the bombing of Britain, it was at home. And Vera Lynn, like Winston Churchill before her, is one of the last universal symbols of that time, Britain’s “finest hour,” her songs an instant jog to a distant memory.
(Fred Barbash, “‘Well’ Meet Again’: Dame Vera Lynn turns 100 nearly 75 years after VE day; Singer is celebrating her 100th Birthday” Independent 20 Mar. 2017)

以下、拙訳。

イギリス人は、アメリカ人よりもずっと、第二次世界大戦にとらわれたままである。なぜかと言えば、疑いなく戦場が近かったからであり、まさに一時期、イギリスが空襲されている間は、戦場だったからである。ウィンストン・チャーチルが以前そうだったように、ヴィラ・リンは、イギリスの「最良の時」当時を象徴する広く知れ渡った存在のうち最後まで生き残った人物で、彼女の歌を聴くと遠い彼方の記憶が即座に呼び起こされる。
(フレッド・バーバッシュ「「また会いましょう」——VEデイから75年近く経って100歳を迎えたデイム・ヴィラ・リン——100回目の誕生日を祝う歌手」『インディペンデント』2017年3月20日)

以上、拙訳。

一般には『Dr. Strangelove』(『博士の異常な愛情』)のラストシーンに使われていることで知られている「We’ll Meet Again」は、まさに第二次世界大戦の最中で歌われた戦争と切り離せない曲であり、歌手のVera Lynnとともに戦争のシンボルとしてイギリスのロックにも登場する。

歌詞の一部を引用。

We’ll meet again
Don’t know where
Don’t know when
But I know we’ll meet again
Some sunny day

以上、引用。

どれほどの曲で歌われているのか調査したわけではないが、何と言っても印象に残るのがPink Floydが1979年に発表した二枚組アルバム『The Wall』に収められている「Vera」である。まさにDameのファースト・ネームがタイトルにつけられた曲は、まさに戦争の記憶に訴える「Does anybody here remember Vera Lynn?」という印象的な問いかけが歌い出しとなっている。

歌詞を引用。

Does anybody here remember Vera Lynn?
Remember how she said that
We would meet again
Some sunny day
Vera! Vera!
What has become of you?
Does anybody else in here
Feel the way I do?

以上、引用。

壁というモチーフを核として家族、教育、全体主義、そして戦争をテーマにした『The Wall』の2枚目A面に収められた「Vera」は、「Nobody Home」と「Bring the Boys Back Home」という「Home」という単語がタイトルに含まれる曲に挟まれている。Vera Lynnという存在に象徴される戦争が「home」と結びつけられるかたちでテーマにされていることを象徴する並びである。

映画版では復員する兵士が家族と再会する印象的なシーンが描かれ、主人公の「父親の不在」が際立つ演出になっている。

その他にも、イギリス帝国の衰退と滅亡をテーマとしたThe Kinksが1969年に発表したアルバム『Arthur (Or the Decline and Fall of the British Empire)』(『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』)に収められた「Mr. Churchill Says」でも歌われている。言うまでもなく、ウィンストン・チャーチルも第二次世界大戦の記憶と結びついた存在であるが、歌い出しではチャーチルが「We Gotta Fight the bloody battle to the very end」と述べると歌われる。

歌詞の一部を引用。

Well Mr. Churchill says, Mr. Churchill says
We gotta fight the bloody battle to the very end
Mr. Beaverbrook says we gotta save our tin
And all the garden gates
And empty cans are gonna make us win

We shall defend our island
On the land and on the sea
We shall fight them on the beaches
On the hills and in the fields
We shall fight them in the streets
Never in the field of human conflict was so much owed to so few
‘Cos they have made our British Empire
A better place for me and you
And this was their finest hour

Well Mr. Montgomery says
And Mr. Mountbatten says
We gotta fight the bloody battle to the very end
As Vera Lynn would say
We’ll meet again someday
But all the sacrifices we must make before the end

以上、引用。

再び「最後の最後まで血みどろの戦いを戦わなければならない」と歌われた後で、Vera Lynnが「We’ll meet again someday」と言っていたと歌われる。直後には空襲警報をイメージさせるサウンドから曲が展開していく。

イギリス帝国全盛期と言われる時代に女王の名前をタイトルにした「Victoria」という曲から始めるコンセプトアルバムで、イギリス帝国の衰亡過程にも位置づけられる第二次世界大戦を象徴する存在として、チャーチルやその他の大物とともにVera Lynnと「We’ll Meet Again」が並列されているのである。また、上記の『Independent』の記事にも登場する「finest hour」が歌詞に含まれていることからも、チャーチルと結びつけられるイギリスの「finest hour」を象徴的に歌っている曲とも言えるだろう。

ロックバンドによる「We’ll Meet Again」のカバーと言えば、僕にとってはThe Byrdsによるものである(アメリカのバンドだけど)。

イギリスのpopular cultureにおけるVera Lynnというテーマはずっと前から追いかけてみたいテーマなんだけど、技量的にも時間的にも困難なまま今に至り・・結局、100歳の節目にメモ程度のエントリーをあげるだけに終わり・・

ハーバート・スペンサーとダーウィニズム

半年近くに渡る修羅場をくぐり抜けて少し余裕が出てきたので、今さらながら昨年シノドスに載った吉川浩満氏に対するインタビュー記事に対して疑問をぶつけておきます。

生きづらいのは進化論のせいですか?

異議があるのは、このインタビュー記事のうち、「通俗的な進化論」と「発展的進化論」とラマルク進化理論とスペンサー進化理論を一直線に結びつけている部分です。わかりやすいように、丸々、引用します。

見出し
「進化論」は「ダーウィニズム」ではない?

聞き手
では、この社会にある「進化論」はいったいどこからやってきたのでしょうか。全部、私たちの科学的知識の無さや誤解から生まれたものなのですか?

吉川浩満(以下五段落)
社会に流通している通俗的な進化論が、科学理論としての進化論を誤解していることはたしかですが、まったくのデタラメというわけでもありません。ちゃんとした出自があるにはあります。

それは、科学史家のあいだで「発展的進化論」と呼ばれる、ダーウィン以前の進化論です。有名なのはフランスの博物学者ラマルク。キリンの首が長いのは、先祖のキリンが高所の葉っぱを食べるために努力をつづけたからだ、という話を聞いたことがあるでしょう。ラマルクは、生物の進化には目標があると主張しました。また、生物には目標の達成度に応じて優劣の序列がある。ラマルクにとって進化とは前進であり発展なのです。

その後、イギリスの思想家ハーバート・スペンサーがラマルクの進化論を発展・拡張させて、世界中で大ブームになりました。彼は、宇宙のあらゆる物事が進化すると考えました。彼に言わせれば、人間の社会も古代国家や未開社会から近代的な国家へと進化していく。その過程において、「適者生存」──この言葉を考案したのもスペンサーです──の競争が行われるのです。

このようにしてスペンサーは、ラマルクの発展的進化論と当時の資本主義先進国を席巻していた自由競争主義を接続し、上昇志向の近代人にぴったりの「進化論」を仕立てあげました。

以上、引用。

スペンサーの生物進化理論が、ラマルクの進化理論から大きな影響を受けていたのは疑いなく、スペンサーの生物進化理論を「発展的進化論」と呼ぶことにも異存のないところです。しかし、だからといって、スペンサーがダーウィン進化理論から影響を受けていなかったということにはなりません。さらに言えば、ダーウィン進化理論が「発展的進化論」ではないということにもなりません。少なくとも「ない」と断言するなら『種の起源』最後の文やダーウィンによる人間進化の理論との整合性は説明しなくてはならないと考えています。

「発展的進化論」という点において、スペンサーの進化理論がラマルクの進化理論と親和的なのは間違いないのですが、近年のスペンサー研究では、スペンサーが育ったイングランド中部に浸透していた理性主義的非国教派(rational dissent)の思想がスペンサーの進歩思想に対して与えた影響が強調されています。

スペンサーはラマルクだけでなくダーウィンの進化理論からも少なからぬ影響を受けているのであり、ダーウィンの影響に言及せずに「ラマルクの進化論を発展・拡張させ」たと説明するのは一面的だと言わざるをえません。

また、「単純から複雑へ」というスペンサーの宇宙進化の理論とスペンサーの生物進化理論の関係はきちんと検討される必要があります。少なくとも、「ラマルクの進化論を発展・拡張させ」た「発展的進化論」とだけ捉えるのは単純化しすぎでしょう。スペンサーにおける宇宙進化理論、社会進化理論、ラマルク進化理論とダーウィン進化理論の両方を取り入れた生物進化理論、この三者の関係はきちんと検討しなければいけない問題でしょう(もちろんインタビュー記事なので、ある程度、単純化しなければ説明できないという事情はわかりますけど)。

確かに「適者生存」(the survival of the fittest)という「言葉を考案した」のはスペンサーですが、この言葉は、『種の起源』で提起されたダーウィン進化理論を受け、「自然選択」(natural selection)とダーウィンが呼んだ過程を指し示すために考案された言葉です。『種の起源』の後の版では、「共同発見者」と位置づけられるA・R・ウォレスの後押しもあり、「自然選択」を言い換えた言葉として『種の起源』に取り入れられることになります。

ちなみに、進化理論研究では複数の研究で『種の起源』出版より前からスペンサーが「適者生存」(the survival of the fittest)を用いていたという事実に反する言及がなされました。ダーウィンとスペンサーを切り離そうとするあまりに、このような誤解が生まれたとは言えないでしょうか。

最後の一文は、完全に間違っているとは言えませんが、誤解を招く表現と言わざるをえません。例えば、ダーウィンは、獲得形質遺伝というラマルクの進化理論とマルサスの人口理論(ある意味「自由競争主義」)を接続し、「上昇志向の近代人にぴったり」の進化理論を「仕立てあげました」という主張は妥当でしょうか。ダーウィン進化理論には、間違いなくラマルク進化理論とマルサス人口理論という要素は含まれていますが、このような表現をすると、地道な科学研究に基づくダーウィンの独創性を過小評価していると言わざるをえないでしょう。同様に、このような表現では、スペンサーの独創性を過小評価することになると思われます。

続くセクションも引用します。

聞き手
ということは、私たちが考える「進化論」はスペンサーのものであると。

吉川浩満(以下四段落)
そうです。ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想です。歴史の教科書などで「社会ダーウィニズム」と呼ばれますが、だから本当のところはこの思想はダーウィニズムではありません。正しくは社会ラマルク主義、あるいはスペンサー主義と呼ばれるべきものです。学問の世界ではすでに否定されています。

いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論です。これは生物の進化にいっさいの目的や目標を認めません。生物の進化を左右するのは目的や目標ではなく、偶然です。進化は単なる結果でしかなく、それ自体ではよいものでもわるいものでもありません。だから生物間に優劣の序列もありません。進化の目的や生物の序列といった発展的な考えと手を切った進化論です。

つまり、私たちの社会にはふたつの進化論が共存しているということになります。学問としての進化論と、一般人の世界像としての進化論。前者はダーウィンが発祥ですが、後者はスペンサーによってつくられたものなのです。

現在、「ダーウィニズム」という言葉が「進化論」の同義語のように使われているために、たとえば「進化論のせいで生きづらい」と思うとき、元凶はダーウィンにあるように感じるかもしれません。でもそれは濡れ衣です。

以上、引用。

一般に「社会ダーウィニズム」と呼ばれているものが、「ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想」なのでしょうか。一般的に「社会ダーウィニズム」と呼ばれているものが「適者生存」や「弱肉強食」という概念と結びついているとしたら、そうではありません。なぜなら、いわゆる「社会ダーウィニズム」が進化論を「人間社会に適用したスペンサーの思想」であったとしても、それはスペンサー生物進化理論におけるラマルク進化理論の要素を「人間社会に適用した」ものではなく、スペンサー生物進化理論におけるダーウィン進化理論の要素を「人間社会に適用した」ものだからです。「弱肉強食」イメージというのは「生存競争」(struggle for existence)や「適者生存」というダーウィン進化理論に由来するイメージであってラマルク進化理論に由来するものではないのです。ゆえに、一般に「社会ダーウィニズム」と呼ばれるものは、「スペンサー主義」はともかく、「社会ラマルク主義」と呼ばれるべきものではありません(「スペンサー主義」とも呼ばれるべきではないと考えますが、スペンサー思想にそのような要素があることは否定できないとも考えています。ただし、ダーウィン進化理論にも同じような要素はあります。)。

「学問の世界」で「すでに否定されて」いることが何なのか明確ではありませんが、一般に考えられている「進化論」、スペンサーに由来する「社会ダーウィニズム」と呼ばれるべき進化論が、ダーウィニズムであること、もしくは、科学的であることでしょう(この両者が結びつけられているのではないかというのが私の疑念です)。

いわゆる「社会ダーウィニズム」がダーウィン進化理論と無関係であるという議論は進化論を対象とする学術研究でも見られる主張ですが、そうだとしたら、どうして「社会ダーウィニズム」と呼ぶ必要があるのかという素朴な疑問が浮上します。折りに触れ表明してはいますが、「社会ダーウィニズム」という言葉および概念は、過去から現在に至る言葉遣いによって付随してきた意味のために、学術的な概念としては使えないというのが私の立場です。

吉川氏が正確に述べているように、「いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論」であって、ダーウィン進化理論そのものではありません。少なくとも、特定の進化理論が科学的に正しいかどうかということとダーウィン進化理論と結びつけられるべきかどうかというのは別問題です。そうだとしたら、いわゆる「社会ダーウィニズム」がダーウィン進化理論と結びつけられるべきではないと主張しながら、現在の主流派進化理論は「ダーウィニズム」と呼ばれるべきだと主張するとしたら、根拠がよくわかりません。一方は社会思想・政治思想でもう一方は真理とされている科学理論だとしても、両方ともダーウィンの進化理論から派生したものである点は同じだからです。繰り返しますが、いわゆる〈社会ダーウィニズム〉がダーウィン進化理論から派生したものでないのであれば、そう呼ばなければいいだけの話です。ただし、学術概念としては利用すべきでないとしても、いわゆる「社会ダーウィニズム」がそう呼ばれるのには上述したように相応の理由があるとも考えています。

上記のような理由から、現在の主流派進化論を「ダーウィニズム」と呼ぶのも誤解を招くので望ましくないと考えています。ダーウィンの進化理論と現在の主流派進化理論は多くの点で異なると考えられるからです。なお「ネオダーウィニズム」と呼ぶのは命名の経緯から言ってももっと望ましくないと考えています。個人的には単に現代の(主流派)進化理論でいいと思いますが、あえて何か呼称が必要だとすれば「modern synthesis」でしょう。日本語では、「進化の総合説」と呼ばれることが多い気がしますが、「現代の総合理論」あたりでいい気がします。

吉川氏が言及している「学問の世界」がどのようなものを指し示しているのか明確ではありませんが、少なくとも進化理論の歴史研究で問題とされているのは、ダーウィン進化理論がどのようにヴィクトリア時代の社会と相互浸透していたのかという問題や、ダーウィン進化理論の政治性という問題であって、社会ダーウィニズムがダーウィニズムではないというようなことではないと言えるでしょう。

おそらく、ここで言われている「学問の世界」というのは科学史学の世界ではなく、一般には生物学の一部門であるところの進化(生物)学の世界でしょうから、そう言っていただければ別に異存はありません。ただし、だからといってダーウィン進化理論といわゆる「社会ダーウィニズム」が無関係になるわけでもありません。

進化理論の歴史研究を含むヴィクトリア時代を対象とする科学史研究では、狭い意味での科学における進化論と一般に考えられている進化論あるいは世界観との関係性も問題にされてきました。例えば、ジョン・C・グリーンという科学史家は、「世界観としてのダーウィニズム」という考え方を提示して、19世紀半ばにダーウィンとスペンサーが同じような世界観を共有していたという議論を展開しました。両者が共通の世界観を共有していたかどうかは議論の余地があると思いますが、ダーウィンもスペンサーも、特定の世界観とのつながりで、あるいは、特定の世界観を背景として、自らの進化理論を構想したとは言えます。また、近年は専門家が議論した進化論と一般社会に浸透した進化論との相互作用にも関心が向けられ、狭い意味での科学理論だけでなく、文学や芸術など広い意味での文化も射程に入れて研究が進められています。「学問としての進化理論」は「ダーウィンが発祥」で、「一般人の世界像としての進化論」は「スペンサーによってつくられたもの」というのは、単純化であるにしても、ダーウィンもスペンサーも過大評価しすぎだと感じられます。少なくとも科学の専門化という過程の途上にあったヴィクトリア時代のイギリス社会では、両者が相互作用しながら進化論が普及していったと考えられるからです。

最後の段落と同じように「元凶はスペンサーにある」と主張するとすれば、かなり「濡れ衣」に近いというか、一つ前の段落と同様にスペンサーを過大評価しすぎだと感じるところです。「ダーウィニズム」でも、「進化論」でも、一般に流通している概念がどうして今のようなかたちで流通しているかというのは非常に複雑な問題で、少なくともスペンサーが「元凶」という単純な話でもない気がします。少なくとも、今でもいわゆる「社会ダーウィニズム」が影響力を持っているのだとすれば、20世紀に入ってスペンサーが急速に忘れ去られて今でも一般にはあまり影響力がないのに、どうしてスペンサーの思想がつくりあげたとされる「社会ダーウィニズム」や「世界像としての進化論」は一般にかなり浸透しているのでしょうか。もちろん今当たり前にあるものの起源がわすれられているというようなことはいくらでもあるでしょうけど、少なくともそこには様々な要因が積み重なっているのであり、「元凶がダーウィンにある」と言えないのと同様に、元凶がスペンサーにあるとも言えないでしょう。

限られたことしか言えないインタビュー記事に対して長文の批判をぶつけると、いくらでも語れるなら単純化せずにきちんと語れるという反応を呼びそうですが、私が曲がりなりにもこれまで身に付けてきた専門研究の知見からすると、以上のようなことは言わざるをえないところです。スペンサーについてはまだまだ格闘し続けなければならないので、いつかきちんとした成果があげられるようにあきらめずに研究していきたいと考えています。

第4回 進化論の「今」と「未来」(NHKEテレ『100分de名著』ダーウィン『種の起源』)

すっかり時機を逸してしまったけど、『100分de名著』の『種の起源』つづき。

第2回と第3回の放送は特に気になるところはなかった。あえて言えば、生存競争を説明する際にマルサスの人口理論への言及がなかったこと。些細なことかもしれないけど、以下で検討する論点とのつながりを考えると、重大なことと考えることもできる。

ダーウィニズムと社会ダーウィニズムの関係、および両者とマルサスの関係については、一つ前の記事をどうぞ。

いよいよ、第4回。社会ダーウィニズムの説明が含まれているので恐る恐る視聴したが、案の定というか予想通りというか、この50年あまりのダーウィン研究の成果が全くふまえられていないと言っていい説明だった。

本題に行く前にまずは余談から。スタジオでの一コマ。

伊集院光「(省略)すごいことなんですね、これ。」
長谷川眞理子「すごいことですね。で、しかも、その、考えを辿っていくといろんなことが、あの、ダーウィンに行き着くんですね。今言われている生態学、あの、生物同士の関係を、あの、調べる学問も、元をただせばダーウィンが考え始めていた。それから、脳や心がどう働くかっていう心理学、あれも結局はダーウィンが、あの、大元は考えたと。そういう意味では、あの、いろんなところにダーウィンが、えー、根っこがあるというか。」

生態学については。『種の起源』に出てくる「economy of nature」概念に見られる通りで全く異存がないのだが、心理学の大元がダーウィンでいいの?という素朴な疑問。これについては完全に専門外なので、心理学史の研究者におまかせしますけど。

以下、本題。いわゆる社会ダーウィニズムについてふれたところをすべて引用。

武内陶子アナ「実は、このダーウィンの理論を、悪用する人がね~」
伊集院光「あ、悪い方ですか。」
武内陶子アナ「そう、だいたいそうなんで、出てくるんでございます。」

以下、ナレーション。

ダーウィンは生き物には上下関係はなく、すべて平等であると考えていました。しかし、生存競争、自然淘汰などの理論を、曲解し、悪用する人々が現れます。ダーウィンが活動した19世紀のイギリスは、産業革命によって資本家と労働者の貧富の差が広がっていました。アメリカ南部には奴隷制度があり、ヨーロッパの強国はアジアやアフリカに次々と植民地を広げていました。こうした中で、力あるものが、勝利し、富を得ることは自然の摂理にかなっている、とダーウィンの理論を自分の都合に合わせて利用する人々が増えていきました。人を差別し虐待することを正当化するもの、今でもダーウィンの理論は誤解にさらされつづけています。

伊集院光「なるほど。いや、あの、進化論がいろんなところにあてはまる、あてはめて自分の、こう足しにできるっていうのが、すごく、え~懐の深いところだし、す、すばらしいことだからなんだけど、切り取る場所によってはこういう使い方ができなくはないっていうのは今ちょっとぞくっとしました。」
武内陶子アナ「そうですよね、ダーウィンはもうあんなにもう、一つから始まって上下はないと、生きているものに上下はないってことを言っていたのに、このように悪用することもできる。」
長谷川眞理子「自分自身の価値観というのに対して、その、科学的な根拠が、これだよっていうことを言う人が結構いるんですよね、大間違いだけど。資本主義はもちろん競争があって、あの、勝たないと企業は、あの、儲からないとか、その、帝国主義は、その、侵略していて征服するとか、そういうことをやっている人がそれを科学的に裏付けとして、自然淘汰の、あの、理論を使って強者は勝って当たり前だというようなことを言いたがるんですね。でもそれは生物学とは関係ないし、ダーウィンも、そんなことは考えていませんでした。」
武内陶子アナ「望んでもいなかったでしょうね。」
伊集院光「皮肉な話ですね。とても皮肉な話ですね。」
長谷川眞理子「それが、ずっとその、第二次大戦で、まあ、あの、ひとつの頂点になるっていうのが、ナチスドイツの優生主義的なことかもしれませんね。その、あの、社会にとって有用な、あの、人間、人種だけを残そうとか、まあ、遺伝的になんか、あのよくないものをもっているひとは全部、断種してしまおうとか、そういうことを、あの、ナチスドイツは考えたと。それは結局ユダヤ人虐殺とか、いろんなことにも、あの、最終的になって、それで、みんな、あの、大間違いに気がつくんですけれども。」
伊集院光「過去三回も今回もそうですけども、あの~、長谷川先生が、僕が例えばちょっと間違った言い方で、進化、退化の話をする時に、目の構造が細かくなっていくことも、え~とそれから、なくなっていくことも、変化で、ていうことなんですけども、僕らは、細かくなっていくことを進化、とか、え~、なくなっていくことは退化、とか、え、さっき言ったように、こっちの方が下手すりゃえらい、動物の種類の中でえらい、人間の方がえらい、みみずはえらくないっていう、ね、その感じになりがちなんだけど、まさにそれを上手に使っている、で、むしろダーウィンはその逆を言っている気がするんですね。」
長谷川眞理子「ダーウィンって、あの、その、よ、書いたものを読みますと、当時の偏見みたいなことは、そ、そりゃもちろん、ちらちら出るんですね、その、野蛮人という言葉を使ったりとか、野蛮人を文明人と比べると、あの、ま、ひどい状態だとかいうことは書いてある。だけど、彼は、本質的には、その、人間はみんな一緒でね、で、あの、その、え、文明人っていうのが文明で衣を着ているから、あの、偉く見えているだけで、いやその、かっこ野蛮人も、あの、文明人も、結局は人間としては同じだと。で、あの、文明人が人間なのではないっていうふうに彼は言ってて」
伊集院光「えらくクールなぐらいに、人間も、あの~、他の動物も、まあ同じって言うか、ま」
長谷川眞理子「枝分かれしたみんな今は同じ位置にいるってことですよね。枝分かれっていうのは本当に、あの、いろんなものが元の生き物からこっちとこっちに分かれてきた、で、人間もここにいるし、ミミズもどっかから分かれてここにいる、て、だから、あの、人間がサルから進化したっていうのを聞いた時に、人間とサルって言って、あの、ぎゃ~と怒った人はいるけど、実はダーウィンの議論はサルよりもっとこえてて、人間はイチョウとも、あの、アカパンカビとも、あの、シジミとも、結局は、あの、親戚ですよと言ったわけですよね。」

本題とあまり関係ないけど、支配階級の地主(貴族)を差し置いて前面に躍り出る「資本家」と「労働者」の対立という図式、マルクス主義おそるべし。ただし、後世に社会ダーウィニズムと言われるような考え方は、旧来の地主階級に対抗する上で新興中産階級が前面に押し出した戦略だったとは言えるかもしれない。

僕はダーウィンの専門家というわけではないので、きちんと答えを与えられるわけではないけど、ダーウィンの引用と絡めて問題点を指摘しておきたい。

さらに、『名著、ゲストコラム』の長谷川眞理子「生き物の多様性はすばらしい」からも引用。

さらに残念なことには、「生存競争と自然淘汰の中で生物は徐々に変化していく」というダーウィンの考え方を「弱肉強食の論理」だと思っている人が非常に多いのです。なかには、ナチス・ドイツが提唱した優生思想(ユダヤ人差別)と進化論を結びつけて、人種差別を助長する論理だと勘違いしてしまう人までいる始末です。

いわゆる社会ダーウィニズムのことをダーウィン進化論の「悪用」や「濫用」とみなすことで、社会ダーウィニズムとダーウィンを切り離す説明法はよくあるものだが、ダーウィン進化論に見られる社会進化論についての研究はこれまでにかなりなされてきた。その問題の一側面は一つ前のエントリー参照。ロバート・M・ヤングの研究は一つ前の記事であげたので、ここでは、社会思想の側面も含めた世界観としてダーウィニズムを捉えたジョン・C・グリーンの研究をあげておく。内容についてはそのうちにブログに書くかも。

Greene, John C. “Darwin as a Social Evolutionist.” Journal of the History of Biology 10 (1977): 1–27. Rpt. in Green, Science 95–127.
—. “Darwinism as a World View.” Green, Science 128–57.
—. Science, Ideology, and World View: Essays in the History of Evolutionary Ideas. Berkeley: U of California P, 1981.

さらに上記の『ゲストコラム』からの引用の続きも引用。

これでは、ダーウィンが浮かばれません。『種の起源』をじっくり読んでいけば、それらが表層だけをとらえた、とんでもない誤解であることがわかるはずです。ダーウィンは決して弱者を排除しようとしていたわけではないし、戦いを肯定していたわけでもなく、生物に関する科学的な法則を見つけようとしていました。逆に彼は、価値観という点では人種差別、奴隷制度の反対論者で、ミミズであろうともヒトであろうとも、すべての生き物は、上も下もなく平等であり、生き物は多様性があるからこそ素晴らしい──と考えていました。今回の番組とテキストでは、「進化とは何か?」について知っていただくとともに、ダーウィンと『種の起源』に対する誤解を解くことに主眼を置きたいと思います。

ダーウィンが「生き物には上下は上下関係はなく、すべて平等である」と考えていたかどうかは断言できるほど単純な問題ではない。少なくとも『種の起源』最後の段落との整合性は考えるべきだろう。以下、引用(日本語訳はブログ執筆者)。

 たくさんの種類のたくさんの植物に覆われ、鳥が潅木にとまってさえずり、様々な昆虫が飛び回り、ミミズなどの虫がじめじめした地中を這い回る、様々なものが絡み合った土手を観察しながら、お互いに異なりながらも非常に複雑な様相で相互依存している、これらの精巧につくりあげられた生物形態がすべて周囲で働く法則によって生み出されてきたことを想起することは興味深い。これらの法則は、幅広い意味でとれば、生殖を伴う成長、生殖とほぼ同義の遺伝、生存条件が直接的あるいは間接的にもたらしたり用不用がもたらしたりする変異、生活のための競争につながるほど高い増殖率、その結果として起こる自然選択であり、形質の分岐と向上しなかった生物形態の絶滅を伴う。こうして、自然の戦争から、そして飢饉と死から、認識できるもので最も高度な物事、つまり高等な動物の誕生が直接もたらされる。この見方、生命は、そのいくつかの力とともに、元々は創造主によって少数の形態あるいは一つの形態に吹き込まれ、この惑星が重力に関する不変の法則に従って回転し続けている間、非常に単純な無数の原初形態から、最も美しくて最も驚異的な形態に進化してきて今も進化し続けているという見方には壮大なものがある。

以下、典拠(日本語訳はブログ執筆者)。
Charles Darwin, The Origin of Species: By Means of Natural Selection or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859, Ed. by J. W. Burrow, Penguin Classics, London: Penguin, 1985, 459–60.

参考までに日本語訳も。
ダーウィン『種の起源(下)』渡辺政隆訳 光文社古典新訳文庫 402–403ページ。
ダーウィン『種の起原(下)』八杉龍一訳 岩波文庫 261–262ページ。

少なくとも、引用の前半部分から「生き物は多様性があるからこそ素晴らしい」とダーウィンが考えていたと言えるかもしれないけど、ダーウィンは「生物に関する科学的な法則を見つけようとして」いたという言明との関係性くらいは考えてもらいたいところ。さらに言えば、「自然の戦争」と「飢饉と死」というネガティブな表現を「壮大(grandeur)」というポジティブな価値と結びつける上で「創造主」が持ち出されている意味も考えるべきだろう。文字通り読めば、「すべての生き物は、上も下もなく平等」どころか、高等動物への進化が「壮大」な創造主の偉業としてたたえられていると読めるわけなので。

もっと問題含みなのが『プロデューサーAのこぼれ話』「名著46 種の起源」での議論。以下、引用。

このように、生き物には、無限といってもいいほどの自然適応のやり方があるのです。大きいもの小さいもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、獲得した器官を失ったもの不必要な器官をもってしまったもの……自然界にはあらゆる形質をもつ生物が多様に存在しています。「強いもの」が生き残るのではなく、たまたま「適応したもの」が生き残るだけです。こうした状況は「弱肉強食」といった単純な図式では決してとらえられないのです(でも人間って、どうしても事を単純化してとらえようとしてしまうんですよね)。

悪名高いナチスの「優生主義」は、人為的に劣っていると判断された遺伝子を駆逐しようとしました。しかし、これはダーウィンの理論によればとんでもないことです。「優秀な遺伝子」なんて存在しないんです。あるのは、「ある環境にあって、たまたま有効であるかもしれない遺伝子」だけ。そして、常に変転してい く自然環境の中では、生き物や「種」が豊かに、そして末長く存続していくためには、できる限り多様なパターンの形質や性質を抱えておく方が有利なのです。 そのことは、番組でもご紹介した、特定の品種のジャガイモだけしか栽培しなくなったアイルランドにおいて、ある一つの病気の発生でジャガイモが壊滅し、 100万人の国民が餓死したという事例をみてもよくわかるでしょう。

つまり、ダーウィンの進化論は、「優生主義」や「強者の論理」「弱者の否定」「人種差別」「障がい者差別」「性的マイノリティへの差別」等々に組みするどころか、それらを真っ向から否定します。それを「人間の倫理」の立場からではなく、「科学」の立場から見事に論証したところが、ダーウィンの素晴らしさだと思います。

ダーウィンほど、生き物の多様性や人間の平等性を愛した人は、19世紀の世の中にはいなかったでしょう。それは、ダーウィンが、身分や人種で人を判断せず、あらゆる人に平等に接したという記録からもわかります。

最近、ともすると「全てを一つの色に塗りつぶさないと気がすまない」、「異分子を排除しよう」、「自分と異なるものは劣っていると考える純血主義」…… 等々といった風潮が見受けられます。自分自身も陥りがちなこうした偏見や差別感情を、きちんと相対化してくれる視点をダーウィンは与えてくれます。

生命の多様性を何よりも尊重したダーウィン。私たちは、科学者としてのダーウィンだけでなく、人間ダーウィンにももっと学ばなければならないと思います。そして、そんな彼が到達した「人間観」、「生命観」にも学び続けなければと痛感しています。

ダーウィンの進化論が優生思想や差別を「人間の倫理」ではなく科学で論証したというのは、これこそ番組のナレーションに登場していた「ダーウィンの理論を自分の都合に合わせて利用」している典型例ではないんだろうか。ダーウィン進化論を優生思想やいわゆる社会ダーウィニズムと切り離そうとするあまり、それらと正反対の価値をダーウィン進化論と結びつけ『種の起源』の議論に投射しているようにしか思われないんだけど。ダーウィンの進化理論はある特定の価値とは関係ないとしつつ、ダーウィン進化論が科学の立場からの別の特定の価値を見事に論証していると述べるのは、科学が規範とか倫理とか思想とかと切り離せないことを逆説的に見事に示していると言えるかもしれない。

最後に、番組の基本的な主張はダーウィンの理論は弱肉強食のいわゆる社会ダーウィニズムやナチスが利用した優生学と正反対ということのようなので、ダーウィンの理論といわゆる社会ダーウィニズムや優生思想との関係を考える上で無視できない部分を『人間の進化(The Descent of Man)』から引用しておく(日本語訳はブログ執筆者。日本語訳のページ数は参考までに。)。


決して忘れてはならないことは、個々人とその子どもは、高水準の道徳を身につけても、同一種族内の他の人々に対してほんの少しだけ優越するかあるいは全く優越しないかどちらかだが、有能な人間の数が増え道徳の水準が向上した種族は、確実に別の種族に対して大きく優越することだ。高度な愛郷心、忠誠心、服従心、勇気、共感を身に付け、いつでもお互い助け合い共通善のために自己を犠牲にするように心がけている人々が多くいる種族は、他のほとんどの種族に打ち勝つだろう。これこそ自然選択だろう。世界中のどこでも常に、種族は他の種族を押しのけてきた。そして、道徳が種族の繁栄にとって重要な要素の一つだったので、どこでもそのようにして、道徳の水準が高まり有能な人間が増えていくことになる。(Darwin, Descent of Man 157–58; ダーウィン『人類の起原』193-94頁)


野蛮人の場合は、身体や精神に欠陥がある人々はすぐに除去され、生き残った人々は力強い健康状態を示す。他方、私たち文明人は、除去の過程に制限を加えることに最善をつくす。私たちは、知的障害者、身体障害者、病人のための施設を建設し、救貧法を制度化し、私たちの医療従事者は、最善の技を用いてあらゆる人のの命を最後の瞬間まで救おうとする。以前は体が弱いために天然痘に屈していた何千もの人々の命を種痘が救ってきたことを信じる理由がある。このように、文明社会の弱者は同類の人々を増殖させる。このことが人類にとって非常に有害であることは、家畜動物の繁殖に関わったことがある人にとっては疑問の余地のないことだろう。驚くべきことに、世話をしなかったり間違った世話の仕方をした場合に、家畜の品種はすぐに退化してしまう。しかし、人間自身の場合を除いて、自分が飼っている最低の家畜動物を繁殖させる愚か者はほとんどいないのである。
 無力な人々に対して私たちがしなければならないと感じる援助は、共感の本能が偶然にもたらしたものであり、共感の本能は、元々は社会的本能の一部として獲得されたが、後に、以前示した仕組みによって、もっと敏感になってもっと広範囲に広がっていったものである。私たちの本性の最も高貴な部分を衰えさせることなしに、たとえ確固たる理性が要求したとしても、私たちの共感を制限することはできないだろう。(中略)それゆえに、私たちは、弱者が生き残り同類の人々を増殖させることがもたらす疑いようのない悪影響を甘受しなければならない。しかし、着実に働いている少なくとも一つの制限、すなわち、社会にいる弱くて劣った人々は、健全な人ほどには好きなように結婚してはいないという制限があるように見える。この制限は、身体あるいは精神における弱者が結婚を差し控えることで漠然と強められているかもしれない。このことは予測されていることというよりは希望的観測なのだが。(Darwin, Descent of Man 159–60; ダーウィン『人類の起原』195-96頁)


進歩をもたらすもっと効果的な要因は、脳が多感な若い時期に行なわれる良質の教育と、最も有能で優れた人々によって教え込まれ、国の法律と慣習と伝統の中に体現され、世論によって後押しされることで、高水準にまで高められた卓越性からなっているように思われる。しかしながら、世論に後押しされるのは私たちの身に付けている共感を基盤にして他人の是認と否認を私たちが尊重するからであるということ、そして、ほとんど疑問の余地なく、この共感は元々は社会的本能の最も重要な要素の一つとして自然選択を通じて発展したということを心に刻み込んでおかなければならない。(Darwin, Descent of Man 169; ダーウィン『人類の起原』205頁)


人類の福利を増進することはとても込み入った問題である。すなわち、自分の子どもが惨めな貧困に陥るのを避けることができない人は誰も結婚すべきではない。なぜなら、貧困が巨悪というだけでなく、無謀な結婚を通じて貧困が自己増殖しがちだからである。他方、ゴルトン氏が述べているように、賢明な人間が結婚を避け無謀な人間が結婚するなら、社会の劣った人々が優れた人々に取って代わるようになる。人類も、疑いなく他のあらゆる動物と同様に、急速な増殖の結果起こる生存競争を通じて今の高度な状態まで進歩してきたのだ。もし、もっと高度な状態に進歩するつもりなら、残念ながら厳しい生存競争に身を投じ続けなければならない。そうしなければ、人類は怠惰に身を沈め、能力の低い人々が高い人々よりも人生の闘いにおいて成功を収めるようになるだろう。ゆえに、私たちの本性に根ざした増殖率は、多くの明らかな害悪をもたらしたとしても、どんな手段であれ大幅に削減してはならない。すべての人々に開かれた競争が不可欠である。最も有能な人間が最も成功し最も多くの子孫を残すのを法律や慣習で妨げてはならない。これまでも、今現在でさえも、生存競争は重要だが、人間本性の最も高貴な部分に関しては、他の作用がもっと重要である。なぜなら、道徳性は、自然選択よりも、直接的もしくは間接的に、習慣、推理力、教育、宗教などの効果を通じて向上するものだからだ。確実に自然選択の作用によるものは、道徳感覚が発達する基盤を提供した社会的本能であろう。(Darwin, Descent of Man 688–89; 『ダーウィン』558-59頁)

以下、典拠の文献。
Darwin, Charles. The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex. 2nd ed. 1879. Penguin Classics. London: Penguin, 2004.
[ダーウィン『人類の起原』池田二郎・伊谷純一郎訳 今西錦司責任編集『ダーウィン』世界の名著50 中央公論社 1979年]

ダーウィニズムと社会ダーウィニズム(社会ダーウィニズム研究における論点3)

ダーウィニズムと社会ダーウィニズムとの関係についてよく見られる言説が、社会ダーウィニズムはダーウィニズムの「誤用」もしくは「濫用」というものである。これは、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムを切り離し別のものとする見解であり、しばしば生物学と政治イデオロギーを切り離す見解とともに主張される。事実と規範との区別に重ねられて、ダーウィニズムは生物学という科学によって確立された真理であり、様々な考え方が対立する政治や社会をめぐる議論とは無関係というわけである。

このような考え方を批判する代表的な論者がロバート・M・ヤングである。ヤングによれば、19世紀前半は自然神学を基盤として「自然における人間の位置」を議論する「共通のコンテクスト」が成立しており、このコンテクストで自然、人間、社会を貫く自然法則が探究されていた。ヤングによれば、このコンテクストで引き起こされた「価値体系の自然主義化」の過程で決定的に重要だったのが1798年に匿名で出版された『人口論』であり、『人口論』第6版を読んでマルサスの〈生存競争〉(struggle for existence)概念を取り入れたダーウィンも、その延長線上で自らの進化理論を展開した。ゆえに、ヤングによれば、ダーウィン進化理論の成立過程において、社会理論と自然科学を切り離すことはできず、ダーウィニズムはそもそも社会ダーウィニズムだということになる。

ヤングの議論については、以下の文献を参照。
Young, Robert M. “Darwinism Is Social.” The Darwinian Heritage. Ed. David Kohn. Princeton: Princeton UP, 1985. 609–38.
—. Darwin’s Metaphor: Nature’s Place in Victorian Culture. 1985. Cambridge: Cambridge UP, 1994.
—. “Malthus and the Evolutionists: The Common Context of Biological and Social Theory.” Past & Present 43 (1969): 109–45. Rpt. in Young, Darwin’s Metaphor 23–55.

このようなヤングの研究に対して、ダーウィンの進化理論に対するマルサス人口理論の役割を過大評価しすぎだという批判もある。自然選択理論を打ち立てる過程におけるマルサス人口理論の果たした役割が大きくないとすれば、ダーウィンとマルサスとの距離が広がり、社会理論/政治イデオロギーと進化理論/生物学を切り離しやすくなる。社会ダーウィニズム研究においても、社会ダーウィニズムの起源をマルサスに求めつつ、ダーウィンとマルサスを切り離すことでダーウィニズムは社会ダーウィニズムとは異なるとする研究がある。

以前の記事でふれたように、スペンサー理論を社会ダーウィニズムの典型としつつ、ダーウィンとスペンサーを切り離して、ダーウィニズムは社会ダーウィニズムではないと主張する見解も一般的である。この場合も、スペンサー理論が社会理論や政治イデオロギーであるのに対して、ダーウィニズムはそのようなものとは無関係な科学理論であるという、上述の図式がしばしば根拠とされる。

個人的な見解としては、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムと呼ばれるものが完全に切り離せるなら、もはや後者を社会ダーウィニズムと呼ぶ必要はない。ホーキンズは、慣用的な用語法であるという理由で、「社会ダーウィニズム」という用語の妥当性を主張しているが、一般にそう使われていることしか正当化する根拠がないなら、イデオロギー(対立)にまみれた「社会ダーウィニズム」という用語を学術研究において使い続ける理由はないと考える。

ホーキンズの社会ダーウィニズム研究は、
Hawkins, Mike. Social Darwinism in European and American Thought 1860–1945: Nature as Model and Nature as Threat. Cambridge: Cambridge UP, 1997.