月別アーカイブ: 2017年3月

Vera Lynn

3月20日、BBC SussexのtwitterアカウントはVera Lynnのニュース一色だった。1917年3月20日生まれのDame Vera Lynnが100歳の誕生日を迎えたのだ(Dameは男性のSirに対応する女性の敬称)。

一般的には「We’ll Meet Again」で知られている歌手のVera Lynnは、「forces sweetheart」と形容されるように、第二次世界大戦中に軍隊への慰問を行ったことで知られ、イギリスにおいては第二次世界大戦の記憶と結びついた存在である。

The British remain captivated by World War II, much more so than Americans, no doubt because it was so close to home, indeed, for a time, during the bombing of Britain, it was at home. And Vera Lynn, like Winston Churchill before her, is one of the last universal symbols of that time, Britain’s “finest hour,” her songs an instant jog to a distant memory.
(Fred Barbash, “‘Well’ Meet Again’: Dame Vera Lynn turns 100 nearly 75 years after VE day; Singer is celebrating her 100th Birthday” Independent 20 Mar. 2017)

以下、拙訳。

イギリス人は、アメリカ人よりもずっと、第二次世界大戦にとらわれたままである。なぜかと言えば、疑いなく戦場が近かったからであり、まさに一時期、イギリスが空襲されている間は、戦場だったからである。ウィンストン・チャーチルが以前そうだったように、ヴィラ・リンは、イギリスの「最良の時」当時を象徴する広く知れ渡った存在のうち最後まで生き残った人物で、彼女の歌を聴くと遠い彼方の記憶が即座に呼び起こされる。
(フレッド・バーバッシュ「「また会いましょう」——VEデイから75年近く経って100歳を迎えたデイム・ヴィラ・リン——100回目の誕生日を祝う歌手」『インディペンデント』2017年3月20日)

以上、拙訳。

一般には『Dr. Strangelove』(『博士の異常な愛情』)のラストシーンに使われていることで知られている「We’ll Meet Again」は、まさに第二次世界大戦の最中で歌われた戦争と切り離せない曲であり、歌手のVera Lynnとともに戦争のシンボルとしてイギリスのロックにも登場する。

歌詞の一部を引用。

We’ll meet again
Don’t know where
Don’t know when
But I know we’ll meet again
Some sunny day

以上、引用。

どれほどの曲で歌われているのか調査したわけではないが、何と言っても印象に残るのがPink Floydが1979年に発表した二枚組アルバム『The Wall』に収められている「Vera」である。まさにDameのファースト・ネームがタイトルにつけられた曲は、まさに戦争の記憶に訴える「Does anybody here remember Vera Lynn?」という印象的な問いかけが歌い出しとなっている。

歌詞を引用。

Does anybody here remember Vera Lynn?
Remember how she said that
We would meet again
Some sunny day
Vera! Vera!
What has become of you?
Does anybody else in here
Feel the way I do?

以上、引用。

壁というモチーフを核として家族、教育、全体主義、そして戦争をテーマにした『The Wall』の2枚目A面に収められた「Vera」は、「Nobody Home」と「Bring the Boys Back Home」という「Home」という単語がタイトルに含まれる曲に挟まれている。Vera Lynnという存在に象徴される戦争が「home」と結びつけられるかたちでテーマにされていることを象徴する並びである。

映画版では復員する兵士が家族と再会する印象的なシーンが描かれ、主人公の「父親の不在」が際立つ演出になっている。

その他にも、イギリス帝国の衰退と滅亡をテーマとしたThe Kinksが1969年に発表したアルバム『Arthur (Or the Decline and Fall of the British Empire)』(『アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡』)に収められた「Mr. Churchill Says」でも歌われている。言うまでもなく、ウィンストン・チャーチルも第二次世界大戦の記憶と結びついた存在であるが、歌い出しではチャーチルが「We Gotta Fight the bloody battle to the very end」と述べると歌われる。

歌詞の一部を引用。

Well Mr. Churchill says, Mr. Churchill says
We gotta fight the bloody battle to the very end
Mr. Beaverbrook says we gotta save our tin
And all the garden gates
And empty cans are gonna make us win

We shall defend our island
On the land and on the sea
We shall fight them on the beaches
On the hills and in the fields
We shall fight them in the streets
Never in the field of human conflict was so much owed to so few
‘Cos they have made our British Empire
A better place for me and you
And this was their finest hour

Well Mr. Montgomery says
And Mr. Mountbatten says
We gotta fight the bloody battle to the very end
As Vera Lynn would say
We’ll meet again someday
But all the sacrifices we must make before the end

以上、引用。

再び「最後の最後まで血みどろの戦いを戦わなければならない」と歌われた後で、Vera Lynnが「We’ll meet again someday」と言っていたと歌われる。直後には空襲警報をイメージさせるサウンドから曲が展開していく。

イギリス帝国全盛期と言われる時代に女王の名前をタイトルにした「Victoria」という曲から始めるコンセプトアルバムで、イギリス帝国の衰亡過程にも位置づけられる第二次世界大戦を象徴する存在として、チャーチルやその他の大物とともにVera Lynnと「We’ll Meet Again」が並列されているのである。また、上記の『Independent』の記事にも登場する「finest hour」が歌詞に含まれていることからも、チャーチルと結びつけられるイギリスの「finest hour」を象徴的に歌っている曲とも言えるだろう。

ロックバンドによる「We’ll Meet Again」のカバーと言えば、僕にとってはThe Byrdsによるものである(アメリカのバンドだけど)。

イギリスのpopular cultureにおけるVera Lynnというテーマはずっと前から追いかけてみたいテーマなんだけど、技量的にも時間的にも困難なまま今に至り・・結局、100歳の節目にメモ程度のエントリーをあげるだけに終わり・・

ハーバート・スペンサーとダーウィニズム

半年近くに渡る修羅場をくぐり抜けて少し余裕が出てきたので、今さらながら昨年シノドスに載った吉川浩満氏に対するインタビュー記事に対して疑問をぶつけておきます。

生きづらいのは進化論のせいですか?

異議があるのは、このインタビュー記事のうち、「通俗的な進化論」と「発展的進化論」とラマルク進化理論とスペンサー進化理論を一直線に結びつけている部分です。わかりやすいように、丸々、引用します。

見出し
「進化論」は「ダーウィニズム」ではない?

聞き手
では、この社会にある「進化論」はいったいどこからやってきたのでしょうか。全部、私たちの科学的知識の無さや誤解から生まれたものなのですか?

吉川浩満(以下五段落)
社会に流通している通俗的な進化論が、科学理論としての進化論を誤解していることはたしかですが、まったくのデタラメというわけでもありません。ちゃんとした出自があるにはあります。

それは、科学史家のあいだで「発展的進化論」と呼ばれる、ダーウィン以前の進化論です。有名なのはフランスの博物学者ラマルク。キリンの首が長いのは、先祖のキリンが高所の葉っぱを食べるために努力をつづけたからだ、という話を聞いたことがあるでしょう。ラマルクは、生物の進化には目標があると主張しました。また、生物には目標の達成度に応じて優劣の序列がある。ラマルクにとって進化とは前進であり発展なのです。

その後、イギリスの思想家ハーバート・スペンサーがラマルクの進化論を発展・拡張させて、世界中で大ブームになりました。彼は、宇宙のあらゆる物事が進化すると考えました。彼に言わせれば、人間の社会も古代国家や未開社会から近代的な国家へと進化していく。その過程において、「適者生存」──この言葉を考案したのもスペンサーです──の競争が行われるのです。

このようにしてスペンサーは、ラマルクの発展的進化論と当時の資本主義先進国を席巻していた自由競争主義を接続し、上昇志向の近代人にぴったりの「進化論」を仕立てあげました。

以上、引用。

スペンサーの生物進化理論が、ラマルクの進化理論から大きな影響を受けていたのは疑いなく、スペンサーの生物進化理論を「発展的進化論」と呼ぶことにも異存のないところです。しかし、だからといって、スペンサーがダーウィン進化理論から影響を受けていなかったということにはなりません。さらに言えば、ダーウィン進化理論が「発展的進化論」ではないということにもなりません。少なくとも「ない」と断言するなら『種の起源』最後の文やダーウィンによる人間進化の理論との整合性は説明しなくてはならないと考えています。

「発展的進化論」という点において、スペンサーの進化理論がラマルクの進化理論と親和的なのは間違いないのですが、近年のスペンサー研究では、スペンサーが育ったイングランド中部に浸透していた理性主義的非国教派(rational dissent)の思想がスペンサーの進歩思想に対して与えた影響が強調されています。

スペンサーはラマルクだけでなくダーウィンの進化理論からも少なからぬ影響を受けているのであり、ダーウィンの影響に言及せずに「ラマルクの進化論を発展・拡張させ」たと説明するのは一面的だと言わざるをえません。

また、「単純から複雑へ」というスペンサーの宇宙進化の理論とスペンサーの生物進化理論の関係はきちんと検討される必要があります。少なくとも、「ラマルクの進化論を発展・拡張させ」た「発展的進化論」とだけ捉えるのは単純化しすぎでしょう。スペンサーにおける宇宙進化理論、社会進化理論、ラマルク進化理論とダーウィン進化理論の両方を取り入れた生物進化理論、この三者の関係はきちんと検討しなければいけない問題でしょう(もちろんインタビュー記事なので、ある程度、単純化しなければ説明できないという事情はわかりますけど)。

確かに「適者生存」(the survival of the fittest)という「言葉を考案した」のはスペンサーですが、この言葉は、『種の起源』で提起されたダーウィン進化理論を受け、「自然選択」(natural selection)とダーウィンが呼んだ過程を指し示すために考案された言葉です。『種の起源』の後の版では、「共同発見者」と位置づけられるA・R・ウォレスの後押しもあり、「自然選択」を言い換えた言葉として『種の起源』に取り入れられることになります。

ちなみに、進化理論研究では複数の研究で『種の起源』出版より前からスペンサーが「適者生存」(the survival of the fittest)を用いていたという事実に反する言及がなされました。ダーウィンとスペンサーを切り離そうとするあまりに、このような誤解が生まれたとは言えないでしょうか。

最後の一文は、完全に間違っているとは言えませんが、誤解を招く表現と言わざるをえません。例えば、ダーウィンは、獲得形質遺伝というラマルクの進化理論とマルサスの人口理論(ある意味「自由競争主義」)を接続し、「上昇志向の近代人にぴったり」の進化理論を「仕立てあげました」という主張は妥当でしょうか。ダーウィン進化理論には、間違いなくラマルク進化理論とマルサス人口理論という要素は含まれていますが、このような表現をすると、地道な科学研究に基づくダーウィンの独創性を過小評価していると言わざるをえないでしょう。同様に、このような表現では、スペンサーの独創性を過小評価することになると思われます。

続くセクションも引用します。

聞き手
ということは、私たちが考える「進化論」はスペンサーのものであると。

吉川浩満(以下四段落)
そうです。ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想です。歴史の教科書などで「社会ダーウィニズム」と呼ばれますが、だから本当のところはこの思想はダーウィニズムではありません。正しくは社会ラマルク主義、あるいはスペンサー主義と呼ばれるべきものです。学問の世界ではすでに否定されています。

いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論です。これは生物の進化にいっさいの目的や目標を認めません。生物の進化を左右するのは目的や目標ではなく、偶然です。進化は単なる結果でしかなく、それ自体ではよいものでもわるいものでもありません。だから生物間に優劣の序列もありません。進化の目的や生物の序列といった発展的な考えと手を切った進化論です。

つまり、私たちの社会にはふたつの進化論が共存しているということになります。学問としての進化論と、一般人の世界像としての進化論。前者はダーウィンが発祥ですが、後者はスペンサーによってつくられたものなのです。

現在、「ダーウィニズム」という言葉が「進化論」の同義語のように使われているために、たとえば「進化論のせいで生きづらい」と思うとき、元凶はダーウィンにあるように感じるかもしれません。でもそれは濡れ衣です。

以上、引用。

一般に「社会ダーウィニズム」と呼ばれているものが、「ラマルクの発展的進化論を人間社会に適用したスペンサーの思想」なのでしょうか。一般的に「社会ダーウィニズム」と呼ばれているものが「適者生存」や「弱肉強食」という概念と結びついているとしたら、そうではありません。なぜなら、いわゆる「社会ダーウィニズム」が進化論を「人間社会に適用したスペンサーの思想」であったとしても、それはスペンサー生物進化理論におけるラマルク進化理論の要素を「人間社会に適用した」ものではなく、スペンサー生物進化理論におけるダーウィン進化理論の要素を「人間社会に適用した」ものだからです。「弱肉強食」イメージというのは「生存競争」(struggle for existence)や「適者生存」というダーウィン進化理論に由来するイメージであってラマルク進化理論に由来するものではないのです。ゆえに、一般に「社会ダーウィニズム」と呼ばれるものは、「スペンサー主義」はともかく、「社会ラマルク主義」と呼ばれるべきものではありません(「スペンサー主義」とも呼ばれるべきではないと考えますが、スペンサー思想にそのような要素があることは否定できないとも考えています。ただし、ダーウィン進化理論にも同じような要素はあります。)。

「学問の世界」で「すでに否定されて」いることが何なのか明確ではありませんが、一般に考えられている「進化論」、スペンサーに由来する「社会ダーウィニズム」と呼ばれるべき進化論が、ダーウィニズムであること、もしくは、科学的であることでしょう(この両者が結びつけられているのではないかというのが私の疑念です)。

いわゆる「社会ダーウィニズム」がダーウィン進化理論と無関係であるという議論は進化論を対象とする学術研究でも見られる主張ですが、そうだとしたら、どうして「社会ダーウィニズム」と呼ぶ必要があるのかという素朴な疑問が浮上します。折りに触れ表明してはいますが、「社会ダーウィニズム」という言葉および概念は、過去から現在に至る言葉遣いによって付随してきた意味のために、学術的な概念としては使えないというのが私の立場です。

吉川氏が正確に述べているように、「いま学問の世界で認められているのはダーウィン由来の進化論」であって、ダーウィン進化理論そのものではありません。少なくとも、特定の進化理論が科学的に正しいかどうかということとダーウィン進化理論と結びつけられるべきかどうかというのは別問題です。そうだとしたら、いわゆる「社会ダーウィニズム」がダーウィン進化理論と結びつけられるべきではないと主張しながら、現在の主流派進化理論は「ダーウィニズム」と呼ばれるべきだと主張するとしたら、根拠がよくわかりません。一方は社会思想・政治思想でもう一方は真理とされている科学理論だとしても、両方ともダーウィンの進化理論から派生したものである点は同じだからです。繰り返しますが、いわゆる〈社会ダーウィニズム〉がダーウィン進化理論から派生したものでないのであれば、そう呼ばなければいいだけの話です。ただし、学術概念としては利用すべきでないとしても、いわゆる「社会ダーウィニズム」がそう呼ばれるのには上述したように相応の理由があるとも考えています。

上記のような理由から、現在の主流派進化論を「ダーウィニズム」と呼ぶのも誤解を招くので望ましくないと考えています。ダーウィンの進化理論と現在の主流派進化理論は多くの点で異なると考えられるからです。なお「ネオダーウィニズム」と呼ぶのは命名の経緯から言ってももっと望ましくないと考えています。個人的には単に現代の(主流派)進化理論でいいと思いますが、あえて何か呼称が必要だとすれば「modern synthesis」でしょう。日本語では、「進化の総合説」と呼ばれることが多い気がしますが、「現代の総合理論」あたりでいい気がします。

吉川氏が言及している「学問の世界」がどのようなものを指し示しているのか明確ではありませんが、少なくとも進化理論の歴史研究で問題とされているのは、ダーウィン進化理論がどのようにヴィクトリア時代の社会と相互浸透していたのかという問題や、ダーウィン進化理論の政治性という問題であって、社会ダーウィニズムがダーウィニズムではないというようなことではないと言えるでしょう。

おそらく、ここで言われている「学問の世界」というのは科学史学の世界ではなく、一般には生物学の一部門であるところの進化(生物)学の世界でしょうから、そう言っていただければ別に異存はありません。ただし、だからといってダーウィン進化理論といわゆる「社会ダーウィニズム」が無関係になるわけでもありません。

進化理論の歴史研究を含むヴィクトリア時代を対象とする科学史研究では、狭い意味での科学における進化論と一般に考えられている進化論あるいは世界観との関係性も問題にされてきました。例えば、ジョン・C・グリーンという科学史家は、「世界観としてのダーウィニズム」という考え方を提示して、19世紀半ばにダーウィンとスペンサーが同じような世界観を共有していたという議論を展開しました。両者が共通の世界観を共有していたかどうかは議論の余地があると思いますが、ダーウィンもスペンサーも、特定の世界観とのつながりで、あるいは、特定の世界観を背景として、自らの進化理論を構想したとは言えます。また、近年は専門家が議論した進化論と一般社会に浸透した進化論との相互作用にも関心が向けられ、狭い意味での科学理論だけでなく、文学や芸術など広い意味での文化も射程に入れて研究が進められています。「学問としての進化理論」は「ダーウィンが発祥」で、「一般人の世界像としての進化論」は「スペンサーによってつくられたもの」というのは、単純化であるにしても、ダーウィンもスペンサーも過大評価しすぎだと感じられます。少なくとも科学の専門化という過程の途上にあったヴィクトリア時代のイギリス社会では、両者が相互作用しながら進化論が普及していったと考えられるからです。

最後の段落と同じように「元凶はスペンサーにある」と主張するとすれば、かなり「濡れ衣」に近いというか、一つ前の段落と同様にスペンサーを過大評価しすぎだと感じるところです。「ダーウィニズム」でも、「進化論」でも、一般に流通している概念がどうして今のようなかたちで流通しているかというのは非常に複雑な問題で、少なくともスペンサーが「元凶」という単純な話でもない気がします。少なくとも、今でもいわゆる「社会ダーウィニズム」が影響力を持っているのだとすれば、20世紀に入ってスペンサーが急速に忘れ去られて今でも一般にはあまり影響力がないのに、どうしてスペンサーの思想がつくりあげたとされる「社会ダーウィニズム」や「世界像としての進化論」は一般にかなり浸透しているのでしょうか。もちろん今当たり前にあるものの起源がわすれられているというようなことはいくらでもあるでしょうけど、少なくともそこには様々な要因が積み重なっているのであり、「元凶がダーウィンにある」と言えないのと同様に、元凶がスペンサーにあるとも言えないでしょう。

限られたことしか言えないインタビュー記事に対して長文の批判をぶつけると、いくらでも語れるなら単純化せずにきちんと語れるという反応を呼びそうですが、私が曲がりなりにもこれまで身に付けてきた専門研究の知見からすると、以上のようなことは言わざるをえないところです。スペンサーについてはまだまだ格闘し続けなければならないので、いつかきちんとした成果があげられるようにあきらめずに研究していきたいと考えています。