投稿者「fujitayuh」のアーカイブ

第1回 「種」とは何か?(NHKEテレ『100分de名著』ダーウィン『種の起源』)

NHKEテレ『100分de名著』
ダーウィン『種の起源』
第1回「種」とは何か。

上記の番組を視聴して、気になったところをいくつか。

まず、こちらのサイト(第1回のところ)にある映像を御覧下さい。


ダーウィンのキャリアについて

大きな流れとしては間違っていないんだけど、まずダーウィンの年齢がよくわからないことに。

ダーウィンの人生を説明するアニメ映像で「エジンバラ大学で医学を学ぶ(19歳)」「ケンブリッジ大学で神学を学ぶ(23歳)」という字幕が・・

ダーウィンがエディンバラで過ごしていたのは1825年秋から1827年春にかけて。1809年2月生まれのダーウィンが16歳から18歳にかけて。

ビーグル号の出港が1831年12月27日なので、1809年2月21日生まれのダーウィンが23歳になったのは、南米を目指していたビーグル号が赤道を越えた直後ということに・・

ダーウィンのキャリア選択に関する説明にも少々疑問が・・以下、『種の起源』までの流れを説明するアニメ映像と、スタジオでのゲストによる説明から引用。

ナレーション「父はこんな[子どもの頃から生き物好きで学校嫌いの]息子を医者にしようとエディンバラ大学に入学させます。しかしダーウィンは血を見るのが苦手で挫折してしまいます。」

武内陶子アナ「で、19歳でエジンバラ大学、医学を志すんですが、中退。」
長谷川眞理子「お父さんが医者ですから、医者を継がせようと思った。で、しかし、当時麻酔がないしね、子どもの手術なんか、もう、泣きわめくのを押さえ付けて切ったりするわけでしょ、そういうところに彼は、あの、耐えられなくて、やめましたね。」
武内陶子アナ「そして、23歳、ケンブリッジ大学、ここで神学を学ぶ、けどもあんまり興味なかったとさっき言ってましたね。」
長谷川眞理子「で、牧師なんていうのも、全然、牧師やってれば、あの、こう、見栄えがいいっていうだけの、そういう選択だったんですね。」

最初にみた時に、ダーウィンが「血を見るのが苦手」で進路変更をしたというのは定説なの?という疑問が・・

このような説明の大もとは自伝の記述だと考えられる。以下、自伝から引用。

Dr. Duncan’s lectures on Materia Medica at 8 o’clock on a winter’s morning are something fearful to remember. Dr. —— made his lectures on human anatomy as dull as he was himself, and the subject disgusted me. It has proved one of the greatest evils in my life that I was not urged to practise dissection, for I should soon have got over my disgust; and the practice would have been invaluable for all my future work. This has been an irremediable evil, as well as my incapacity to draw. . . . I also attended on two occasions the operating theatre in the hospital at Edinburgh, and saw two very bad operations, one on a child, but I rushed away before they were completed. Nor did I ever attend again, for hardly any inducement would have been strong enough to make me do so; this being long before the blessed days of chloroform. The two cases fairly haunted me for many a long year. (Francis Darwin ed., The Life and Letters of Charles Darwin, Including an Autobiographical Chapter, 3 vols, London: John Murray, 1888, 1: 36-37)

(一般向け番組なので分かりやすくした方がいいという制約があるにせよ)「血を見るのが苦手」よりは複合的な要因がありそうなんだけど・・(仮に父親のロバートのような立派なphysicianになったとして、手術をする必要はあったのでしょうか??・・素人の素朴な疑問・・)

聖職者を目指すことにしたというのも「世間体」からだけ説明するのも・・上流階級の一番上ではない男子のキャリアとして一般的だったとか(デズモンド&ムーアの伝記では「safety-net」という言葉が使われている)、親の方針とか、すでにかなり熱中していた自然史研究に打ち込めるとか、もう少し説明のしようがある気がする。何が決定的に一番重要だったのかについて専門的な見地から断言する材料は持ち合わせていないけど。

「safety-net」(日本語訳では「安全ネット」)のソースは、
Adrian Desmond & James Moore, Darwin, London: Penguin Books, 1992, 47
[A・デズモンド&J・ムーア『ダーウィン』渡辺政隆訳 工作舎 第1巻73頁]


ビーグル号の航海について

再び、『種の起源』までの流れを説明するアニメ映像から引用。

ナレーション「この航海は、ダーウィンに新しい考えを芽生えさせます。環境などの影響で生物は変化し、新しい種が生まれるのではないか?[ここで「新しい「種」への進化が起こる?」という字幕]、つまりルーツを辿れば、原始的な微生物から人間まで、すべての生物は一つにつながっていると考えたのです。」

上記の通り、アニメ映像では、ダーウィンがビーグル号の公開中に進化論に目覚めたというようにみえるんだけど、スタジオで長谷川眞理子氏が「ま、ガラパゴスはね〜、そんなに、あの、え〜、その時にすぐ何か考えついたわけではないんですけどね」ときちんとフォローしている。ダーウィンが進化理論に取り組み始めたのは帰国後のロンドンというのが定説のはず。


『種の起源』出版の経緯について

さらに、『種の起源』までの流れを説明するアニメ映像から引用。

ナレーション「ビーグル号の航海から20年以上過ぎたある日のこと、若い博物学者ウォレスからの手紙がダーウィンの運命を変えます。」
ダーウィン「これは・・私の考えていることとほぼ同じではないか・・」
ナレーション「ウォレスもまた種は進化するという考えに到達していました。ダーウィンは背中を押されたかたちで膨大な資料をまとめる作業に着手しました。そして50歳の時、『種の起源』を出版したのです。」

(ここにつっこむのも野暮かもしれないんだけど)ウォレスのいわゆるテルナテ論文がダーウィンの運命を変えたのは、テルナテ論文に「種は進化するという考え」が書かれていたからではなく、テルナテ論文には変種が元の種から変遷してく過程が自らの自然選択と同じようなメカニズムによると議論されているとダーウィンには感じられたからで。本当にそうだったかはともかく。

また、ダーウィンは「膨大な資料をまとめる作業に着手」して『種の起源』を執筆したのではなく、少し前からすでに着手していた「膨大な資料をまとめる作業」をある意味で中断して急遽『種の起源』を出版することになったわけで。自らの進化理論をきちんとした論拠を示して体系的に論じようとした幻の大著『自然選択』を執筆し始めたのは1856年5月だとされている。テルナテ論文を受け取る2年あまり前である。

ダーウィン進化理論の形成過程およびウォレス理論との関係についての概説は、やはりボウラーの評伝がいい。Peter J. Bowler, Charles Darwin: The man and His Influence, Cambridge: Cambridge University Press, 1996[ピーター・J・ボウラー『チャールズ・ダーウィン 生涯・学説・その影響』横山輝雄訳 朝日選書571 1997年]


創造論と進化論を図示するモデルについて

最後に、「ダーウィンより前の考え方」である創造論とダーウィンが提唱したとされる進化論との違いを図示したフリップについて。

番組で示されたモデルは大ざっぱに書くと以下の通り。

・創造論

現存する4種が創造の時点から変化していないことを4本の並行直線で示す。

現在    A B C D
      | | | |
      | | | |
創造の日  A B C D

・進化論

枝分かれ系統樹モデル

現在の4種を一つの起源から枝分かれして進化してきたことを示す。

現在    A  B C D
      |  | | |
       \/ / /
        \/ /
         \/

(これも目くじら立てることでないかもしれないんだけど)並行直線モデルと枝分かれモデルをダーウィン以前の創造論とダーウィン以降の進化論と重ねるのはどうなんだろう??・・

並行直線モデルはダーウィン以前から唱えられていた並行進化の過程を表すこともできる。例えば、すべての生命は自然発生する下等な種から人類を頂点とする高等な種へと進化していくという並行進化の理論を表すことも可能である。(番組的には)ダーウィン以前の進化論というものはないことになっているのかもしれないけど・・

また、ダーウィンの時代には地質学の発展により創造論の立場に立つにしても創造が一回限りの出来事だとは考えにくくなっていたのではないか。地質学の成果に基づけば、創造は一回限りの出来事ではなく、下等な種から高等な種へと時間の経過の中で何度も創造が行われたというのが自然な創造論になる。一方、創造が一回限りの出来事だと考えて、その後は自然法則という神の導きに従って種が枝分かれして多様な種に進化したと考えることも可能である。このようなモデルをダーウィン自身も『種の起源』の最後でほのめかしている。

というわけで、多様な種が個別に創造されたのか、共通の祖先から枝分かれして進化してきたのか、という個別創造モデルと枝分かれ進化モデルの対立を並行直線モデルと枝分かれ系統樹モデルとの対立に完全に重ねてしまうのは・・やはりもう少し正確に、種の起源が、種が個々別々に創造されたことなのか、それとも、別の種から進化してきたことなのか、という個別創造論対進化論という図式を示してほしかった・・(一般向けテレビ番組だから仕方ないのかもしれないけど・・)

第2回はどんなことに・・

ダーウィニズムとは何か?(社会ダーウィニズム研究における論点2)

社会ダーウィニズムを考察する際には、当然のこととしてダーウィニズムとは何かということを検討しなければならない。

社会ダーウィニズム研究には、社会思想である社会ダーウィニズムと科学理論であるダーウィニズムの間には必然的な関係はなく、ダーウィニズムと社会ダーウィニズムははっきりと区別すべきであるという議論も見られる。

しかし、ダーウィニズムの意味とは関係なく社会ダーウィニズムの意味が決まるのだとしたら、その考え方を社会「ダーウィニズム」と呼ぶ必然性はないだろう。

(英辞郎 on the WEBの「social Darwinism」の項目では、以下のように説明されている。「社会ダーウィン主義◆個人・集団・国家・思想における競争が、人間社会の進化をもたらすという理論。Darwinismの言葉が使われているのは、生物進化の考え方や適者生存(survival of the fittest)の考え方を取り入れているためであり、ダーウィンとの関わりはない。19世紀のスペンサー(Herbert Spencer)や、優生学を創始したゴルトン(Francis Galton)らが提唱した。」)

evolutionismという意味でDarwinismが使われることもあるが、ダーウィニズムがダーウィン進化理論のことだとすれば、通常その柱は共通起源説(枝分かれ進化モデル)と自然選択説だろう。しかしながら、ダーウィンの進化理論には現在の科学では否定される要素も含んでいる。代表的な例としてはラマルクに由来する獲得形質の遺伝であるが、遺伝学が確立されていなかったことも現代の視点から定義されるダーウィニズムと同時代のコンテクストから定義されるダーウィニズムが異なる要因となっている。

また、ピーター・J・ボウラーが強調しているように、現代的な観点におけるダーウィニズムと同時代のコンテクストによるダーウィニズムとの重要な違いは〈進歩〉の概念をめぐるものである。

現代のダーウィン進化理論理解によれば、自然選択はあくまで環境により適応した個体が生き残り子孫を残すプロセスに過ぎず、適者とは必ずしも優れた個体を意味するわけではないが、自然選択の同義語とされた適者生存は生存競争を通じて優れた個体が生き残り劣った個体が死滅する進歩をもたらす過程だと捉えられてきた。

進歩の必然性という考え方が、存在の連鎖のような下等なものから高等なものにいたる生物の序列という考え方と結びつき、下等な生物から高等な生物への進歩していくという進化過程が当然のものだと考えられる傾向が見られた。いわゆる人種の序列もこのモデルに組み込まれ、類人猿から野蛮人を経て文明人にいたるという下等なものから高等なものへの進化という図式が広く共有されていた。

枝分かれモデルと環境への適応による進化というダーウィンの進化理論は、上記のモデルを相対化する契機を含んでいたが、ダーウィン自身も『種の起源』で自然選択による進化が進歩をもたらすという期待を表明しているし、『人間の進化(The Descent of Man)』では人種の序列を前提にしている。

ダーウィンは、上記のような当時の通念を前提にしつつその枠組みに収まり切らない理論を展開しているので、いわゆる社会ダーウィニズムとの関係でダーウィンの進化理論を考察するのは一筋縄では行かない。

〈社会ダーウィニズム〉概念の必要性(社会ダーウィニズム研究における論点1)

とりあえず社会ダーウィニズムの歴史研究に関する全く学術的ではない個人的なメモを書くことにする。

社会ダーウィニズムの歴史研究に関して身も蓋もない論点。そもそも社会ダーウィニズムという概念が有効なんだろうか?必要なんだろうか?という問題。

個人的な見解というか、2009年のイギリス哲学会のシンポでも表明したんだけど、個人的にはプラスよりもマイナスが大きいという感触。あまりにもイデオロギー色がつきすぎている。

少し違う論点として、ダーウィンの進化理論と直接に結びついていないものを社会ダーウィニズムと呼ぶ理由があるのか?という問題もある。

例えば、ダーウィンが『種の起源』で自らの進化理論を発表する前から社会ダーウィニズムは存在していたという命題はどのように考えるべきだろうか?もちろん、一般的に社会ダーウィニズムと呼ばれているものがダーウィン以前から存在していたと議論することは可能であるが、それを社会ダーウィニズムと呼ぶ必要はあるのだろうか。

また、典型的な社会ダーウィニズムを唱えたのはスペンサーで、ダーウィンの進化理論は社会ダーウィニズムと関係ないというような議論もされたりするが、それでもなおスペンサーが唱えた考え方を社会ダーウィニズムと呼ぶべきだろうか。スペンサーとダーウィンを切り離した上でスペンサーと結びつけられる思想をダーウィニズムの名前で呼ぶ理由があるのだろうか。もちろん、そういうふうに呼んできたからという正当化はありうるけど、ある方法で社会ダーウィニズムを定義するとスペンサーが社会ダーウィニストでなくなるからこの社会ダーウィニズムの定義は不適切であるというような議論がなされると、何か違うという感じは否めない。

全く疑いもせずに社会ダーウィニズムとか社会ダーウィニストとかを明確なかたちで実在するかのように語る研究にも違和感を感じざるをえない。